月別アーカイブ: 2006年2月

村上龍+中田英寿「文体とパスの精度」

文体とパスの精度

文体とパスの精度

中田 イタリア人とワインの話をしていておもしろい話を聞いたな。友達同士でも恋人同士でもパーティなんかで、おいしいワインは全部なくなるけど、まずいワインは絶対に残るんだって。(笑)たとえ咽が渇いていても、絶対に残るって。

中田 重要な大会があったりしたときに、最終的にはレギュラーとして出ているからそういうイメージがあるのかもしれませんが、実際は補欠から始まって、徐々に徐々に試合に出始めて、最後にレギュラーを取っているという状態なんです。それはやはり負けず嫌いであるということと、あとは自分で言うのも何なのですが、やはりそれだけいろいろ見て考えていた。言われたことをやるのではなくて、自分で考えて、たとえばうまい選手がいたら、あそこは自分よりうまいなと、そういうふうに少しずつ自分で吸収していって、たぶんそれで試合に出られるようになっていくんだと思います。

村上 で、エースが代表に入らないっていうことはしょっちゅうあるんだよ、今までの歴史の中でも。クライフにしても、カントナにしても、フリットにしても、日本のマスコミはまさかそんなことはないだろうと思って書いてるんだろうけど、でもあるんだよ。その国のダントツのエース、攻撃の中心が出ないこともあるし、反対にサッキがマンチーニやバッジョをなかなか代表にしなかったように、監督が出さないなんてこともしょっちゅうなんだから。そのくらい日本のサッカーも層が厚くなったとか、世界のサッカーに近づいたということはいいことなんだけど、メディアに危機感がなさすぎるよね。

加藤廣志「日本一勝ち続けた男の勝利哲学」

日本一勝ち続けた男の勝利哲学

日本一勝ち続けた男の勝利哲学

個人的に秋田県能代市とバスケットボールには両方縁がある。当然能代工業には強い興味を持っていた。一度名監督であった加藤廣志監督の考えに触れてみたかったので、本書を購入してみた(僕は実際には後継者である加藤三彦監督の世代である)。

加藤廣志監督の選手作り、チーム作り、組織作り、街作りに関する経験と洞察はあらゆるリーダーに参考にしてもらいたいと思うほど興味深い内容。監督などスポーツのリーダーや指導者の方だったら尚更興味深く読めるのではなかろうか。能代高校のバスケットボールスタイルはどちらかと言うと個人技重視という感じのないように見えるが、この本を読むと、加藤監督がどれほど個々人の長所を活かすチーム作りに骨を砕いていたかが分かる。基礎体力と強い精神力から生み出されるオールコートプレスに象徴される能代のチームプレイに、監督が磨き上げた個人の長所が加わった結果、あのような強いチームが出来上がるのであろう。一ファンとして、非常に感銘を受けました。

「話す・聞く」と「読む・書く」

「英語喋れる?」とか「英語が喋りたい」とか「現代人は英語くらい話せないと不味いですよ」とかそういう話をよく耳にする。特に四月には英語の勉強をしだす人がどっと増えるし、五月は海外旅行のシーズンなので、こういった話を聞く機会も増えてくる。
しかしあまり「英語読める?」とか「英語が書けるようになりたい」とか「現代人は英語くらい読めないとね」という話は耳にしない。何故なのか。理由を考えてみると、どうも以下の二点ではないかと思われる。

  1. 「英語は読む・書くより話す・聞くほうが大事である」とみんな漠然と信じている
  2. 「学校で文法ばっかり勉強してきたので、読む・書くは既にそこそこ出来ている」と考えている

1. について、個人的には英会話学校のマーケティング戦略が大成功した結果だと思っている。これ程社会に自社に有利な意識を根付かせた例を僕は他に知らず、「洗脳」と呼んでも過言ではないくらいに上手くいったのではないだろうか。これはこれで凄いことである。
だが本当に話す・聞くの方が大事なのだろうか。自分の頭で一度しっかりと考えてみる必要はあると思う。
例えば英語を話す機会はどれくらいあるだろう。外資系の企業に勤めていたりと、とてもたくさん機会のある人もいるとは思うが、大抵の場合はたかが知れているのではないか。僕は外国人の友達も何人かいるし(ほぼ英語圏の人間ではないが)、海外旅行にもそれなりに行っている。それでも一年に十日も英語を話している日はないと思う。ましては一日中話している日などない。そんなものだ。
一方、Amazonや旅先で洋書を購入して読んだり、ウェブでThe New York Timesを読んだり、洋楽の歌詞カード、ソフトウェアのマニュアルなど、英語を読む機会は結構身近にある。上述した外国人の友達ともメールで近況を交換している。少なくとも僕にとっては読む・書くが、情報の取得、人との交流という面から見て重要となっている。

2. は日本が偏った英語教育をしてきたことと、ときに誤った文法を交えながらどんどん英語で意見を述べてくる南米人や欧州人に対する劣等感の狭間で生まれた意識だと思う。実際僕が米国に留学をしていたときに、他国の留学生に対する「英文法での優越感」を持っている人間に出会ったりもした。
しかし日本人が文法が出来るというのも思い込みの部分があり、少なくともTOEFLの世界ではこれは事実ではないようである(Googleで「TOEFL 日本人 平均」で検索)。文法セクションの点数が、他国の受験生の点数よりも相対的に下回っているのである。
実際僕も受験英語は大分勉強したつもりの人間だったのだが、英語を米国で勉強していく中で、勘違いしていた文法、知らなかった文法がたくさんあった。「文法の勉強なんて今更やるの?」と思っていた僕は目の覚める想いだった。

僕は別に話す・聞くを軽視している訳ではない。ただ盲目的にそこに力点を置いている人を多く見かけるし、読む・書くの為の勉強は地味で忍耐力がいるのでどうしても避けられがちだ。ただそれでは大事なことを見逃す結果にもなり兼ねないので、しっかりと考えたうえで勉強に取り組んで頂きたいと思い、英語を先に勉強した人間として、一つの視点を提示させて頂いた。

独身女性をターゲットにした車

最近テレビを見ていると、独身女性をターゲットにした車のCMが多いことに気付かされる。伊東美咲さんの出ているマツダDEMIOのCMを一番見かける気がするが、他にも各社最低一台ずつは、独身女性をターゲットにした車を造っているようだ。
おそらくこれは少し前までなら考えられないことだろう。特に僕らの親世代にはまるで理解出来ないのではないか。一昨年に「負け犬」なんて言葉が流行したが、独身の女性が増えてきたことにより、今まで市場のアウトサイダーだった女性が市場に参加してきたのであろう。僕の回りの独身女性が車を買ったという話はまだ聞かないが、今後増えていくのであろうか。
車のCMからでも、社会の状況が色々と分かって面白い。

Javaの書籍を注文

EclipseからTomcatを起動するところまでやりたかったのだが、「Tomcat設定ページでTomcatの設定をしてください。」と蹴られてしまう。なぜだろう。Tomcatのフォルダはきちんと設定してあるんだが。次回はここから解決しよう。

上記の問題だが、Eclipseの設定が足りていなかった。「Tomcat」と書いてあるところを設定しなければならなかったようだ。その下の階層の設定だけやっていた。恥ずかしい。

さて、本日Javaの書籍を二冊Amazonで注文しました。両方ともネットワークプログラミング関係です。C言語でのやり方は分かっているので、そんなに苦労せず理解できると予想している。書籍の感想はまた、読書記録として載せよう。

Eclipse、Tomcatのインストール

仕事でEclipseとTomcatの組み合わせでJavaアプリケーションを開発することになったので、少し自宅で予習を行ってみた。本日の作業は以下。

  1. Eclipseのインストール(eclipse-SDK-3.1.2-win32)
  2. Language Packのインストール(NLpack1-eclipse-SDK-3.1.1a-win32)
  3. Tomcatのインストール(jakarta-tomcat-4.1.31)
  4. Eclipse用Tomcatプラグインのインストール(tomcatPluginV31)

EclipseからTomcatを起動するところまでやりたかったのだが、「Tomcat設定ページでTomcatの設定をしてください。」と蹴られてしまう。なぜだろう。Tomcatのフォルダはきちんと設定してあるんだが。次回はここから解決しよう。

それにしても、これらのものが無料で揃ってしまう世の中って本当に凄いなと実感。

Eclipseのインストールの際に参考にしたサイト
http://www.atmarkit.co.jp/fjava/javatips/104eclipse026.html

Eclipseのサイト
http://www.eclipse.org/

Apache Tomcatのサイト
http://tomcat.apache.org/

Tomcatプラグインのインストールの際に参考にしたサイト
http://takeoba.cool.ne.jp/moreJava/tomcatPlug.htm

Tomcatプラグインをダウンロードしたサイト
http://www.sysdeo.com/eclipse/tomcatpluginfr

中野嘉子+王向華「同じ釜の飯」

同じ釜の飯 ナショナル炊飯器は人口680万の香港でなぜ800万台売れたか

同じ釜の飯 ナショナル炊飯器は人口680万の香港でなぜ800万台売れたか

実はナショナル開発陣の電気釜開発物語かと思って購入したのだが、日本の炊飯器を香港、さらには中国本土、アジア全域へと売りまくったビジネスマン、蒙民偉(モン・マンワイ)氏がいかにして成功を掴んだのか、を主題とする書籍だった。ビジネスはやはり一にも二にも行動力とスピードであるということが改めて実感出来た。ITがビジネスを大きく変え、WEB2.0をキーワードとする我々が議論している未来が実際にやってきても、ビジネスには行動力とスピードが必要、という原則は変わらないだろう。行動力というものの在り方自体が変わってしまう可能性はあるが。

世界に初めて自動炊飯器「電気釜」を送り出したのは、ライバル東芝だった。一九五五年(昭和三十)に国内市場で発売した。謳い文句は、「ごはんが科学的においしく炊ける」。電気釜があれば、台所に立ちっぱなしで火加減を見なくても、誰でも手軽にご飯が炊けた。
東芝に先を越されて、松下では衝撃が走った。
「こういう商品が、なんで松下に出せなかったんだ?」
当時、家庭用電気器具を扱う松下電器は「弱電」、大型電気機械を扱う東芝、日立、三菱電機は「重電」と呼ばれ、重電のほうがランクは上とされていた。
(中略)
炊飯器開発の責任者だった坂本は、近所の裏庭で自殺を考えるほどに思いつめたという。
「負けるもんか」
技術のスタッフは、東芝の電気釜を見て思った。

開発者として、製品を作る人間として、このような誇りを自分は持てているのか考えさせられた。このように製品に想いを込めた人間同士、企業同士の飽くなき切磋琢磨が、当時の人々の生活を豊かにしていったのだろう。

私の中での関連書籍として、以下にもう一冊載せておきます。実は以下の本が面白かったので、似たような本はないかと今回「同じ釜の飯」を買いました。参考までにどうぞ。

マツダはなぜ、よみがえったのか?

マツダはなぜ、よみがえったのか?

「英語を使う仕事がしたい」と言う前に

英語を使う仕事がしたい、それを仕事を選ぶ基準にする人が相当数いると思う。特に英語の勉強がとても好きであったり、あるいは留学をしていた人なんかに多い意見だと思う。当時一生懸命学んだ英語、少しでもそれを活かしたい、僕も英語を闇雲に勉強していた時期があったので、共感を持つことが出来る意見である。
ただ少し考えて欲しいのは、大抵の仕事で英語を活かせる機会はあるということ。英語が使えることによって、自分の仕事の幅を拡げられます。例えば小学校の教員がアメリカの教育制度をアメリカ人から学んでも良いと思う。世界中にある素晴らしい物語を子供たちに伝える為に、洋書を読んだりしても良いと思う。それには当然英語が必要だろう。技術者なんかでも、最新の技術なんてものは大抵英語で発表されるものであるし、それらをいち早く学ぼうと思ったらやっぱり英語力が必要だ。デパートの店員でも警察官でも料理人でも、英語を学ぶことによって仕事に幅を拡げることは出来る。仕事に活かすことが出来るのである。
おそらく「英語を使う仕事がしたい」という意見の正体は「英語を使うことを強制される仕事がしたい」ということなんだと思う。就職観は様々だと思うし、どんな意見も否定する気はないが、「英語」という部分にこだわりすぎて本質を見誤ってしまう人が日本には多いように漠然と感じている。それが原因で何かの機会を逃すようなことがあれば、非常にもったいないことである。「英語を使う仕事がしたい」と言う前に、その気持ちの本質を少し掘り下げてみるべきだと思う。

民主党の立証責任意識の欠落

朝日新聞の記事から抜粋。

一方、前原氏は、代議士会で「武部幹事長周辺は極めて疑いが強い。一点の曇りもないというなら、国政調査権の発動に応じるべきだ。追求の気持ちに揺るぎはない」

おいおい。じゃあこの先誰かが出所の分からない怪文書やらメールのプリントアウトやらを持って来たら、その度に国政調査権の発動を要請なさるおつもりか。追求の気持ちが揺るがないことは立派だが、立証責任が民主党側にあるのは火を見るより明らかだ。「何かあるはずだから探ってくれ」という程度の権力じゃないだろう、国政調査権は。

国会だから立証責任の考え方が一般と違うかもしれないと思ったけど、やっぱり人道的に考えて民主党は間違っていると思う。個人的には誰も辞任する必要なんてないと思うけど、立証責任の誤った考え方を流布する可能性があるから、この話題に関しては前原氏にきちんと謝罪して頂きたい。

リリー・フランキー「東京タワー」

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

2005年に話題となった本に目を通してみようと購入。

「お母さん」というこれ以上広く共感を呼ぶことは出来ないであろうテーマを扱っていることもあって売れに売れたようだ。 だがこれは「リリーさんとリリーさんのオカン」の話であって、本当の意味での共感など出来るはずもない。 この本に「感動した」という意見が多数寄せられている。だが敢えて「あなたはあなたのお母さんとの物語を」と言いたい。

でも感動しなかった訳ではありません。