若者言葉と日本語ブーム

2005年は日本語ブームが話題となった。まあ要は「若者言葉が気になる」って話と「日本語ってこんなに素晴らしい」って話であれこれ盛り上がっていた訳だ。さらに「若者言葉が気になる」って話は所謂「やばい」とか「ありえない」とかに関する議論と、2chをはじめとするネット上での日本語に関する議論に分けられる。

議論を進めて頂くのはおおいに結構だが、日本語に対して保守的なスタンスの皆さん、言葉とは生物であり、環境に適応すべく変化していくもの」という視点をお持ちですか。簡単な話、鎌倉時代と江戸時代で言葉の使われ方が違うように、江戸時代と現代でも言葉の使い方が違う訳だ。「貴様」や「御前」という言葉は上品な言葉だったものが違う意味を持つようになったと想像するが、これと同じことが「役不足」や「煮詰まる」という言葉にも起きているっていう論理展開だって可能なはずだ。半数以上が誤用しているという調査結果があるならなおさらだ。「言葉の意味合いが変わる局面」に私達は立ち会っているのだ。かつて電話や印刷技術によりコミュニケーションが増大したように、携帯電話とインターネットが口頭、文頭両面でコミュニケーションを増幅した。しかもおそらくかつてないインパクトを日本語(というか言語)に与えており、保守層が慌てふためくのも無理のないことなのだ。

id:finalventさんが「言葉とか日本語を愛するかという人間は、なぜ生まれ出る新しい言葉の誕生のその場に驚愕しないのか」の中で

美しい言葉があるのではなく、人と人の関わりの場面の美しさが言葉のなかにsettleする。だが、新しい人間の関わりはどうしても古い言葉をつきやぶっていく。そういうものだ。

と書かれている。携帯電話やインターネットという今まで人類が経験したことのないリアルタイム性と簡易さを持つテクノロジーによって、人間同士に「新しい関わり」が生まれた。そして冒頭で述べたとおり、適者生存の理に従って「言葉」という生物が適応を試みているのだ。そしてこの適応はかならず成功する。

今後10年、20年でGoogleをはじめとする企業群によって本格的に「言語間の壁の破壊」が行われることになるだろう。そのとき言語は経験したことのない環境の変化に再び直面し、適応を試みるはずである。