「英語喋れる?」とか「英語が喋りたい」とか「現代人は英語くらい話せないと不味いですよ」とかそういう話をよく耳にする。特に四月には英語の勉強をしだす人がどっと増えるし、五月は海外旅行のシーズンなので、こういった話を聞く機会も増えてくる。
しかしあまり「英語読める?」とか「英語が書けるようになりたい」とか「現代人は英語くらい読めないとね」という話は耳にしない。何故なのか。理由を考えてみると、どうも以下の二点ではないかと思われる。
- 「英語は読む・書くより話す・聞くほうが大事である」とみんな漠然と信じている
- 「学校で文法ばっかり勉強してきたので、読む・書くは既にそこそこ出来ている」と考えている
1. について、個人的には英会話学校のマーケティング戦略が大成功した結果だと思っている。これ程社会に自社に有利な意識を根付かせた例を僕は他に知らず、「洗脳」と呼んでも過言ではないくらいに上手くいったのではないだろうか。これはこれで凄いことである。
だが本当に話す・聞くの方が大事なのだろうか。自分の頭で一度しっかりと考えてみる必要はあると思う。
例えば英語を話す機会はどれくらいあるだろう。外資系の企業に勤めていたりと、とてもたくさん機会のある人もいるとは思うが、大抵の場合はたかが知れているのではないか。僕は外国人の友達も何人かいるし(ほぼ英語圏の人間ではないが)、海外旅行にもそれなりに行っている。それでも一年に十日も英語を話している日はないと思う。ましては一日中話している日などない。そんなものだ。
一方、Amazonや旅先で洋書を購入して読んだり、ウェブでThe New York Timesを読んだり、洋楽の歌詞カード、ソフトウェアのマニュアルなど、英語を読む機会は結構身近にある。上述した外国人の友達ともメールで近況を交換している。少なくとも僕にとっては読む・書くが、情報の取得、人との交流という面から見て重要となっている。
2. は日本が偏った英語教育をしてきたことと、ときに誤った文法を交えながらどんどん英語で意見を述べてくる南米人や欧州人に対する劣等感の狭間で生まれた意識だと思う。実際僕が米国に留学をしていたときに、他国の留学生に対する「英文法での優越感」を持っている人間に出会ったりもした。
しかし日本人が文法が出来るというのも思い込みの部分があり、少なくともTOEFLの世界ではこれは事実ではないようである(Googleで「TOEFL 日本人 平均」で検索)。文法セクションの点数が、他国の受験生の点数よりも相対的に下回っているのである。
実際僕も受験英語は大分勉強したつもりの人間だったのだが、英語を米国で勉強していく中で、勘違いしていた文法、知らなかった文法がたくさんあった。「文法の勉強なんて今更やるの?」と思っていた僕は目の覚める想いだった。
僕は別に話す・聞くを軽視している訳ではない。ただ盲目的にそこに力点を置いている人を多く見かけるし、読む・書くの為の勉強は地味で忍耐力がいるのでどうしても避けられがちだ。ただそれでは大事なことを見逃す結果にもなり兼ねないので、しっかりと考えたうえで勉強に取り組んで頂きたいと思い、英語を先に勉強した人間として、一つの視点を提示させて頂いた。