「西洋と東洋」なんて二元論で語るのはあまり好きではないのですが、所謂亀田騒動を見ていて僕が感じたのは「ああ、そういえばボクシングは西洋から輸入したものでしたね」ということ。
剣道を愛し、礼節を重んじる森田だけに、「会見場にハンバーガーを食べながら入ってきたのには驚いた」。
目上の人間に敬意を払うのは、武士道精神の基本。だが、亀田は8歳年上のランダエタにメンチを切るなどやりたい放題。「相手が『彼は他人を敬うことを学んだ方がいい』と言っていたけど、なるほど、その通りと思ったよ。若くて実力がある選手なんだから、パフォーマンスに頼らず頑張れ」としかった。
剣道に限らず、空手にしろ柔道にしろ合気道にしろ東洋の格闘技には必ず「礼節を重んじること」、「相手を敬うこと」といったような訓示が併せて付いてくる。例外なく「ただ強くなればそれでいい」というようなことを述べるお師匠さんはいなくて、「格闘技というものを通して、精神的にも人間として極みを目指せ」というのが東洋の格闘技の一般的な方向性だろう。これは格闘技に限ったものでもなく、西洋のフラワーアレンジメントと東洋の生花の対比でも同じことが言えそうだ。西洋=物質主義、東洋=精神主義なんて言い出すつもりはないが、東洋がより「精神的な極み」を目指すことによった文化を持っているということは論を待たないと思う。
そんな西洋から来たボクシングにも東洋の文化と重なり易い部分がある。それが所謂「ハングリー精神」というものである。もっと言えば「減量苦」とか「安いファイトマネーで頑張る」とか「涙橋を逆さに渡る」とかそういう部分。特に我慢に我慢を重ねる減量苦は、かの力石徹選手の例を挙げるまでもなく、目に見えぬ何かを掴み取るための精神的修行の様に我々の目に映る訳で、それを精進料理のみ食べて生きるお坊さんに重ね合わせたとしても不思議はないと思う。僕は欧米のボクシングファン事情は何も知らないけれど、欧米で力石は受けないんじゃないかな、と思う。彼の行動原理を受けとめる文化を持ち合わせていない国が多いと思うからだ。
で、つまるところですね、そういった「ハングリー精神」と称される「東洋の精神論」とマッチする部分がボクシングから無くなったとすると、やはりボクシングは日本ではそれほど受け入れられないんじゃないかな、と。近年あまり人気が出ていないのもしょうがないのではないかと。ボクシングを日本人が愛する基盤というのはかなり脆弱なんじゃないかな、と。そう思いました。
だから今回の一連の騒動で、事実はどうあれ我々一般人の目に「しょせんボクシングは一部の人間がビジネス優先でやっている」と映ってしまった日には我々が反感を持つのは当然ですし、ボクシングから離れていく人が増えるのもこれまた当然だと思うんですよね。「フェアな試合を!」とか「八百長」とか「視聴率の獣」とかそういう批判が多く聞こえてくるけども、亀田親子の親子愛も、興毅選手の減量苦も、何か大きく物質主義的な流れに飲み込まれてしまい、東洋的な価値観と相容れない感情が我々の中に残った。そんな構図なんですよきっと。
まあともかく、次の試合は必ず観ることにしよう。