月別アーカイブ: 2007年9月

久石譲「感動をつくれますか?」

感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)

感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)

宮崎アニメや北野映画、最近ではサントリーの伊右衛門のCM音楽などでおなじみの作曲家である久石譲氏による新書。ちょっと立ち読みで興味が湧いたので購入してみた。
タイトルは「感動をつくれますか?」と、いかにもエンターテイメント産業を志す人向けの本のようなものだが、内容自体は「どのように仕事を進めるか?」という至極まともな内容というか、この久石さんという方は非常に論理的な思考をする方であると推測できるのだが、作曲家という自分の仕事についてかなり分析的に考えているようだ。例えば作曲家とか芸術系の仕事だと、曖昧に「センスがある」とか「感性が鋭い」とか評して、なんとなく回りもそれで分かったような気になってしまうけれど、氏はもう一歩きちんと突っ込んで考えているという印象を受ける。
氏がミニマルミュージックからエンターテイメントミュージックの世界に方向変えしたのも、マーケティングでいうところの「プロダクトアウト」から「マーケットイン」という考えの転換であろうし、ビジネスパーソンにとっても勉強になる一冊である。もちろん音楽や映画に関わる人間や、エンターテイメントの世界を志す若者にとっても示唆に溢れる内容となっているので、「ヒットメーカーとはどのような思考の持ち主であるか」をチェックしたいと思ったらお薦めでございます。

日本の企業は体育会系が支配する

となんとなく思った。100%そうだとか言うつもりもないし、「体育会系って何やねん」と定義を求められても答えられなかったりするのだが、アカデミックな雰囲気よりも、体育会系のノリが会社の空気を支配しがちなんじゃないかな、と思っています。

魚住昭「官僚とメディア」

官僚とメディア (角川oneテーマ21 A 62)

官僚とメディア (角川oneテーマ21 A 62)

タイトルが好みだったこともあり、書店で見かけて即購入。読んでみると思った通り好みの内容だった。

著者は元共同通信社の記者であったようだが、共同通信社時代、また退社後に独自に取材を進める中で気付いた「権力を監視する役割であるはずのメディアが、以下に行政や立法と結び付いているか」について本書で述べている。事例も例えば姉歯元建築士の耐震偽造問題や、ライブドア事件、陪審員制度導入、NHK-朝日新聞問題など近年起こった(起こっている)有名な社会問題ばかりなので、誰でもすんなりとその腐敗構造を理解することができると思う。
個人的な感想としては、あまり僕がマスコミに興味がないのもあるが、この程度の腐敗構造はまあ当然あるんだろうな、と読後に妙に納得してしまった。普段からあまり深く考えている訳でもないけれど、「権力の監視機関としてのマスコミ」なんていうのはおそらくどの世界にでもある「まあ理想を言えばそうなんだけど、現実を見ろよ」的な看板ではないかと思っているし、マスコミがそのようにあるためには、結局我々読者のレベルが高くないといけないわけだ。そうそうそこまでのレベルで記事を読んでいる人間など多くないだろう。だからやっぱり腐敗していくんだろうな、というのは感覚で理解できる。そういう意味では本書に驚きはなかったが、まさか司法と電通が手を組み、司法にとって有利な世論を醸成しようと企んでいるとは思わなかった。それは驚き。
本書を読んで一番感じたのは、著者の、そして文章の中に出てくる現場の記者達のプライドである。会社が大きくなり、素晴らしい記事を書くことでなく、権力に迎合した記事を書くことの方が社の利益となるという上の判断が出始めても、やはり現場の記者達はプライドを持って取材し、プライドを持って記事にしているのである。幸い今はインターネットの時代であるので、その記者達のプライドが、ボツという形で闇に葬られるのではなく、新聞や雑誌とは違った形で我々の元に届くことを期待したい。

有効ではない反論

Life is beautiful: 安倍総理への提案:「人生のやり直し」に寛容な社会作りをしませんか?というエントリが最近アップされたが、はてブを見てみると以下のようなコメントが付いていたので、ちょっと紹介したい。

はてなブックマーク – Life is beautiful: 安倍総理への提案:「人生のやり直し」に寛容な社会作りをしませんか?

同意だけど、安倍さんに振ってもしょうがない

なぜ安倍さん? 彼が必死になってこの問題に取り組んだところで彼では少しも改善できない。総理が解決できるレベルの話じゃない。

見方はいい。ただ、事例がいかにもでどうも。あと、安倍はターゲットじゃないと思う。

それを阿呆ボンに聞いても無駄だろ。

これらを見ていて、また小学校時代の思い出が記憶に甦ってきた。僕とクラスメイトが何かしらの値を当てっこしている、というシーンである。

A 「僕らの住んでいる町は何丁目まであるか知ってる?」
僕 「う〜ん、八丁目までだと思う」
B 「俺は八丁目までじゃないと思う」
A 「正解は十丁目まででした〜」
B 「いえーい、俺の勝ち〜」
僕 「…」

具体的な内容はきちんと覚えていないのだが、言いたいことを伝えるのにはこれで十分だと思う。
このときの僕はこの構図がおかしいということを周りの皆に説明する力を持ち合わせていなかったのだが、今なら誰にでも自明であろう。僕が=8を答えにしているのに対し、Bは<>8を答えにしている。これはあまりにもBに有利な勝負である。もしこの勝負を有効にさせようと思ったら、Bも9とか10とか具体的な数字を述べなければならないか、もしくはオッズでも導入するしかないのである。このBの答えが僕に対する反論だとしたら、とても有効とは言えない。
この構図は実は社会に出てからもそこそこ見かけるということを最近気付いたのだが、上記で引用したはてブコメントはまさにこのパターンだと言っていいだろう。提案先が安倍総理で間違っているとするならば一体誰が正しいのか、それくらいは短い文章しか書けないはてブにでも書けたであろう。要するに<>だけ述べて、=で述べた相手に勝った気になってしまっているのである。しかしこれは有効な反論とは言えない。そうではないだろうか。
まあこのブログの著者が安倍総理に提案と書いているのは、ただ権力中枢の象徴として安倍総理の名前を使っているだけであり、誰に提案を持っていけば良いのかを真剣に検討した上で書いたわけではないと思うので、そもそもそこに突っ込みを入れること自体がずれた行為であるように思える。

今すぐやろう

社会人になって学んだことのひとつに「お前のやりたい事は、今ある問題を片付けたらやらせてやる」という約束は信じるな、というのがある。

僕は別に約束した相手が嘘をついているとか、上司なんか信用するなとかそういうことが言いたい訳ではない。ただ「今ある問題」というのが非常に大きくて時間がかかるものであるとしたら、それを解決した頃に状況が変わっていないなんて誰が約束できるだろうか。新に解決しなければならない問題は起きていないだろうか。周りのメンバーはまだ存在しているであろうか。そういう「変化」まで約束できる人なんていない、そういうことが言いたい。
社会人になって間もない方には特に声を大にして言いたいが「いつかその内に」という「いつか」は来ない。「いつかこうこうこういう事がやりたいけれど、今はこれをやれと言われている。(長いことかかるけれど)これが終われば自分のしたいことが出来るだろう」なんていう考えは達成されない、もしくは達成されたら物凄く幸運なのだ。
やりたいこと、やるべきだと思っていることがあるなら今すぐやろう。目先のこともこなしながら達成できるほど、あなたのやりたいことが小さいのでなければ、目先のことも捨てよう。労働人生なんて40年くらいしかないんだから。

40歳、50歳のプログラマ

米国には40歳、50歳のプログラマが結構いるという。彼らが社会的にどの様に扱いを受けているのか分からないけれど、僕の個人的な感覚からすれば高齢のプログラマが存在することは自然というか、むしろ相当に年季が入った人達であろうと尊敬を覚えてしまう。まったくもって肉体労働ではないし、むしろ多くの専門知識と経験が要求される職業なのであるとすれば、そのくらいの年齢になるまでやっていないと一流とは言えないのではなかろうか。40歳、50歳の料理人や職人なんてのはごろごろ日本にだっているだろうし、プログラマもまあ同じようなもんだと思っている。
しかし日本で40歳のプログラマというと大抵「え、40にもなってまだコーディングしてんの?」的な侮蔑の混じったリアクションを受けてしまうのではないだろうか。アメリカの40歳のプログラマがある程度の尊敬を受けているとするならば、この差は一体なんだろうと考えてしまうのだが、こういうリアクションをしてくる人は大抵プログラマじゃない、もしくはプログラムを少し触ったことがある程度のであることから、彼らの頭の中にはもう「プログラム=ビジネスロジックを組む=誰にでも出来る」という固いロジックが出来上がってしまっているのであろうと推測する。そして決まって「いつまでもコーディングなんかしていないで、マネージングとかしていかなきゃ」という結論を彼らは持ち出す*1
彼らは本当に自分の頭で考えた結論を述べているのであろうか。疑問に思う。確かに社会全体はそういう雰囲気だと思う。でもただそれに流された意見を述べていないであろうか。例えば料理人や大工も自分の技をいつまでも極めていては駄目で、他の料理人や大工のマネージメントの道に進むべきなのであろうか。スポーツ選手に体の衰えがなかったとしても、コーチや監督業に進むべきなのであろうか。普通そうは思わないだろう。むしろマネージメントに進もうと画策している料理人の料理なんか食べたくない、って僕は思ってしまうけれど。
、とここまで書いてて思ったけれど、「プログラムは誰にでも書ける」というロジックと共に「プログラムは実は肉体労働」的な考えも彼らにはあるという気がしてきた。もしそれが本当だとすれば、年と共にプログラムをすることは難しくなるだろう。ただ僕の意見では、プログラムというはこれでもかというくらいの知識労働である。そのプログラムを肉体労働化してしまっているものは、ソフトウェアがどうだとか技術的にどうだとかいう話よりも、むしろビジネス上の問題というか、人間系の問題だろう。
「プログラムなんてこんなもんだろう」的な結論に辿り着こうとしているそこの貴方、まずはStructure and Interpretation of Computer Programs (MIT Electrical Engineering and Computer Science)でも読んでみませんか。

*1:個人的には、プログラマのマネージメントはプログラムを書いている人にしか出来ないと思う。

政治は瞬発力

政治関連のニュースを見ているといつも思うのだけれど、政治というのは結局継続力とか持久力というよりも瞬発力が求められる世界である。悪く言えば場当たり的な対応というか、その場その場の対応というか。結局そういったものが選挙でのコアコンピタンスになるから政治かもそう動く訳で、そうさせているのは結局我々投票権を持った大人なんだろうけれど、見ていてあまり気持ちいいものじゃない。
プログラマでもよく先のことを考えず目先の事だけ考えてコーディングしちゃう方がいるんだけれど、それってその目先の問題だけに着目すれば結局「コーディングを素早く終わらせた」という良い評価になってしまう。でも政治もプログラムも後々色々な修正が必要になってくる面では同じである。先を考えたプログラムを自分は心掛けるので、政治化には未来を見据えた政治を心掛けてもらいたい。たとえ最初はそれで票が集まらなくても。難しいかなぁ。