月別アーカイブ: 2007年12月

2007年度の今年の一冊

自分の中では年末恒例の「今年の一冊」の時期がやってきた。これは僕が極めて個人的に「今年はこんなことがあったなぁ」と思い出しながら、ベストセラー小説を買って読むというだけの企画であり、過去には下記のように本をセレクトした。

書籍
2003年 バカの壁 (新潮新書)
世界の中心で、愛をさけぶ
2004年 東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
2005年 信長の棺
2006年 わたしを離さないで

「今年はどうしようかな」と少しだけ真剣に考えたのだけれど、今年は小説はやめることにして、テクノロジー業界に身を置きながらも、「やっと」というか「ようやく」というか「まだ読んでいなかったのかよ!」と言われそうなイノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)を読んでみることにした。今年は思うところの多い一年だった。色々と楽しんだことも多かったけれど、分かりやすい形で苦難も多い一年だった。来年はこのブログのタイトルに合わない三十代に突入する。自分のこれからの歩む道を意識しながら、クレイトン先生の名著のメージを捲りたいと思う。

池田信夫「過剰と破壊の経済学」

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

梅田本も勿論そうだけど、ソフトウェアや通信など、所謂IT業界で活躍する若き人材や、将来それらの業界を目指している学生達にはこの「池田本」も是非読んでもらいたい。なぜかというと、この池田本で今僕らが属している世界というのはどういう世界なのか、どのように成り立ったのかを総覧出来るからだ。この池田本で自分達の属している世界の構造をしっかりと把握してから、梅田本を読んで夢や将来像を作り、それを達成する為の戦略を練ってほしい。
本書は「ムーアの法則」(他にもたくさんの「○○の法則」があるようですが)を中心とするメモリの集積度の向上、記憶装置の大容量化や通信の速度の向上などの急速さが、いかに今我々が属している世界のルールを破壊してきたのか、そして破壊していくのかについて書かれた、いわば現代のIT社会の生態を説明した図鑑の様なものである。著者はブログで有名な池田先生である。相変わらずの豊富な知識と筆力のおかげで、池田先生のブログの読者である僕にもつまらなさを感じさせることにの無い内容になっている。世界には色々な人間がいるとは思うけれど、個人的な意見ではここまで経済とITについてきちんと勉強している人っていないんじゃなかろうか。池田先生は技術も「そんな技術がある」程度の認識で終わらせず、その仕組みまで正しく認識しているところが凄い。ちなみに「メモリの集積度はなぜ上がっていっているのか?」、つまり「ムーアの法則はなぜ成り立つのか」については非常に本書が勉強になりました。技術畑にいるのに知らない技術の話が多く、それについては自分を戒めたい。
最近ウェブ・リテラシーが話題になったけれど、ウェブをはじめとするこのところの技術革新は我々労働者間の生産性を大きく向上させている(生産性の向上というよりは、コストの低下と言った方が良さそうだが)。逆に言えば、その流れについていけなければ皆に大きく置いてきぼりをくらう社会になってきているということである。ここまでコストを下げてくれる技術が溢れているのに、それを利用せず、いつまでも旧来のやり方に頼っている上の世代を見るともどかしく思うが、自分も下の世代からそう思われないよう、常にこの流れを監視していく必要があるだろう。それこそ池田先生の様に勉強していきたい。そういう話だ。

山本博「フランスワイン 愉しいライバル物語」

フランスワイン 愉しいライバル物語 (文春新書)

フランスワイン 愉しいライバル物語 (文春新書)

こういうワインの楽しみ方というのは、もしかしたら競馬の楽しみ方と似ているのかもしれない。どの馬とどの馬がライバルであるとか、そういう関係はまあ我々が勝手に決めていることである、がそういう関係を仮定すると、レースが非常に愉しくなる。競馬にはずいぶんはまった時期があったが、そういう関係を見つけ出すごとにはまっていったという記憶がある。
本書は弁護士であり、世界ソムリエ・コンクールの日本代表審査員も務める山本博氏によるフランスワインの解説書である。功名にフランスの有名ワインを二つ一組で、つまりライバル関係にしたてあげて(勿論生産者の方やファンの方には強いライバル意識を実際に持っている方も多いと思うが)紹介している。氏はめっぽうワインには詳しいし、それにまつわる料理や歴史、地理の知識も驚くほど豊富なので、ワインファンにとってだけでなく、フランスという国のファンにとっても非常に面白い内容となっている。はっきり言って、読んでいると喉が渇くし、おなかが減ります。
それにしても山本氏、彼よりワインに親しんでいる日本人って居るのだろうか。うーん、今度フランスに行くとき、僕も連れて行ってほしいです。本気出してそう思いました。

村上春樹「スプートニクの恋人」

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

本書を読んだということは、村上春樹氏の長編小説は一応全部読んだ事になる。「村上春樹ファンなの?」と問われるといつも「いや、違うよ」と答えきた様な気がするが、世間的には僕のような立場の読者は一応「ファンだ」と言っておいた方が適切なんじゃないかと思う。あくまで言動が一致していることがすばらしいことだという価値観の中の話だけど。
小説や文学作品の記録を付けるのは難しいが、このスプートニクの恋人も非常にここに何を書いたらいいのかを迷ってしまう作品であったと言える。個人的には「また居なくなる系か」という感想が一番単純な感想である。我々人間は誰かの不在によってその人間の存在を一番確かめることができるという生き物なので、ある人間が居なくなるという現象は、人が人と向き合っていく上で非常に、こういっては誤解があるかもしれないが、有意義なチャンスであると言えると思う。この作品でもすみれという女性の不在により、主人公やミュウと呼ばれる女性はすみれの存在を感じ、またそれは自分という存在を感じることにも繋がっていったであろう。
Wikipediaの「スプートニクの恋人」に以下のような記述があった。

この小説は村上自身が語るように、彼の文体の総決算として、あるいは総合的実験の場として一部機能している[要出典]。その結果、次回作の『海辺のカフカ』では、村上春樹としては、かなり新しい文体が登場することになった。

スプートニクの恋人 – Wikipedia

しかしながら、その「実験」が何であるのかを僕に読み取ることは出来なかった。「海辺のカフカ」を読み返せばあるいはその内容が分かるのかもしれないが、今のところその予定はない。小説や文学は、よほどのことがない限り読み返さないようにしている。その「よほどのこと」は極めて個人的な「よほどのこと」であることが多いのはまあさておき。
ミュウは魅力的な女性であるように描かれていたし、僕も彼女を魅力的な女性であるように想像した。が、ひとつ疑問に思ったのが「性欲という機能を失った人間が、果たしてどこまで異性としての魅力を放つ事が出来るのだろうか」ということである。性欲を失った人間が異性を強く惹き付けるようであれば、それは我々の動物的能力の低下を意味するであろうし、生命としてではなく、「人間」としての特有の魅力とは果たしてなんなのであろうか、という疑問に答えを出す為のひとつのヒントになりうる。そうではないだろうか。

ユーザというのは今抱えている顧客のことだけではない

「ユーザの為にはこうするべき」
「それをやっちゃうとユーザに迷惑がかかる」
「ユーザはこう言っている」

こういった言葉を聞くとき、その「ユーザ」という言葉の中に「将来我が社の製品を買い、使ってくれるであろう人」は含まれていないことが多い。あくまでそれは「今抱えている顧客」の事を言っているに過ぎない。
勿論今現在製品を使ってくれている人が重要でないわけではないが、あまりにもそちらに傾いた思考が目立つなあ、というのが僕が仕事をしている上でよく感じる事。

「その変更、ユーザは喜ばないよ」

本当にそうだろうか。よく考えてから、つまり「今とこれから」を考えてからそう言ってもらいたい。

病的なまでに何かに拘れるか?

もし自分がエンジニアの採用に全権を持つことができたら、どのようなエンジニアを採用するだろうかということを最近よく考える。勿論まとまった考えなど出来上がっていないのだけれど、ひとつ思いついたアイデアというか着眼点を披露するとすると、それは「病的なまでに何かしらに拘ることが出来るだろうか」という部分を応募者の中に見つけ出し、そういう人を採用したいということ。
AppleのジョブスはiPodのテカリ方が気に食わないといってプロトタイプを突き返したそうだし、YMOもレコーディングのときに1000分の1秒の音のずれにまで拘ったというし、本田宗一郎に関してもそのような話を聞いたことがある。こういう拘りを持って仕事ができるかどうか。エンジニアにとっては重要な部分ではないかと思う。
勿論全てのことに拘り続けていては仕事は進まない。しかし全てのことに「まあこんなもんだろう」というスタンスで仕事を進めてしまう人が多いのもまた事実。「拘り」という生半可なレベルではなく「病的なまでの拘り」を持った人間と一緒に仕事がしたいし、自分もそうでありたいと思う。
ちなみにこういう病的な拘りを持ったタイプの人間は、人間そのものとしての人気はあまり無いタイプが多いのではなかろうかというのは正直気になる。

猪浦道夫「語学で身を立てる」

語学で身を立てる (集英社新書)

語学で身を立てる (集英社新書)

「語学を勉強しよう」と思う方は是非読んでほしい。いや読みましょう。「語学で飯を食っていこう」という人にも勿論読んでほしいけれど、僕としては「語学を勉強しようと思っているけど、英会話学校とかに通わないといけないのだろうか」と考えてて、かつ知的レベルは高めだという方にこそ読んでほしい一冊。
経営破綻した英会話学校をはじめとした英会話学校のマーケティングの効果と、我々日本人の大多数が持っている欧米人へのコンプレックスのおかげで、日本の英語勉強感はまったくもって狂っていると思う。これは受験英語が間違っているとかそういう話を超えて、何の資格もない米国人の主婦のお小遣い稼ぎに高いお金を出して英会話を習いにいってしまったりとか、大学を出たばかりの適当な外国人を見繕った英会話学校に通ってしまうだとか、そういう「語学を勉強する事」に関する人々の思慮の浅さは多分とんでもないことになっている。きつい言い方のようだが僕はそう思っている。
誤解のないように言っておくが、本書はそういった世の中を批判している本ではない。ただまじめに、誠実に「語学でやっていくとはどういうことか、その為には何が必要なのか、語学で食っていっている人間はどういう人たちなのか、どうやって就職するのか、どうやって勉強するのか」といった事を書かれている。そしてこれらの情報は、「語学でやっていこうとまでは考えていないけれど語学を勉強したい」と考えている人間にもかなり有効なものである。是非一度読んでいただきたい。

寺本義也、山本尚利「技術経営の挑戦」

技術経営の挑戦 (ちくま新書)

技術経営の挑戦 (ちくま新書)

正直に言うと、記録を付けるほどしっかり読んでいないのだが、言いたいことはある程度掴んだつもりである。まず目次だけ並べると以下の様になっている。

  • 技術経営、第三の道
  • 技術経営についての基本認識
  • 日本型技術経営の栄光と転落
  • 米国型技術経営の成功と曲がり角
  • アジア発のグローバル技術経営の提言
  • 技術経営の担い手たち

すごく簡単に要約すると「70、80年代の日本の技術企業は成功したのに90年代は駄目だったね。90年代はアメリカがすごく技術経営がうまくいっていたよ。それを取り入れつつ、次の世代の技術経営を考えないといけない。日本が駄目だった結果として青色発行ダイオードとかフラッシュメモリーの発明者とか米国に流れて行っちゃってるわけだし、もっときちんと考えないと勝てないよ」という感じだろうか。
技術の経営というのは理論としてしっかりと学者さんたちに研究してもらいたいと思う一方、そういったメソッドだけを持った人間が現場に入ってくるのはエンジニアとしては恐怖だな、という感想を持った。最もこの本を読む限りでは、技術というのはまだまだハードウェアを相手にした言葉であり、ソフトウェアの開発や研究のマネジメントというのは対象外にされていた感があるのだけど。

ブログの更新が滞る

Macbook購入したせいで、逆の様だけれどブログの更新が滞っている。ソフトのダウンロードやOSの設定やら他にやる事がたくさんあるのが原因なのだけれど、PC買ってネットやる暇がなくなるんじゃ本末転倒。こちらの更新もしっかりやっていきたい。
それにしてもWindowsとMacのキーボードの微妙な違いについては結構悩まされている。USキーボードにしてしまったというのもあるのだが、中々Windowsで身に付いた癖が取れずに困っている。なおかつWindowsのキーボードに対してもギクシャクしてきているので、今現在はどちらのキーボードの使用も覚束ないという状況。うーむ。
ちなみにトラックパッドを二本指で操作すると画面がスクロールするのは便利過ぎです。