日本最古のジャズ喫茶といわれる横浜・野毛の「ちぐさ」が、今月末で七十三年の歴史に幕を閉じる。戦争を乗り越え、戦後は世界的ジャズアーティストの渡辺貞夫さんや秋吉敏子さんらも通った。往年のジャズファンたちは「ここに青春があった」と寂しさを隠せない。
先に断わっておくが、僕はまったくもってジャズファンではないし(それ程詳しくないという意味で、嫌いではない)、この「ちぐさ」にも類似のジャズ喫茶にも足を運んだことなどない。つまり僕にとってはまったく関係のないニュースなのだが、自分の心の中に感じた物悲しさは無視できないレベルのものあった。
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The Japan Timesでも同様の記事が出ており、そちらでは「Once-cherished jazz coffee shop meets its doom in era of iPod」というタイトルで分かるように、音楽のデジタル化がこういった店が存続できない理由の一つだと分析している(そもそもジャズを聴く人が少なくなってきているという事実も取上げられている)。僕の基本的なスタンスは「時代の宿命」であり「テクノロジーの進化がもたらしたメリットの副作用」であるし、「テクノロジーの進化がもたらしたメリット」についての記事を読めば興奮を覚える人間であるのだが、やはり今回の「ちぐさ閉店」のようなニュースには懐古の情と言えばいいのか、なんとも形容しがたい「残念さ」を覚えてしまう。
しかし同時に人間がこのような感情を抱くからこそ、テクノロジーや社会的構造の進化というのはときとして足が遅いのだろう。何かの進化は何かの退化を齎すのだ。そのことを理解しなければならない。テクノロジーの進化は人間に変容を求める。もはや現代のテクノロジーは「音楽をどこかに聴きに行く」というスタイルに合致していないのであろう。これは結果論であり、「そういう時代になったように見える」という僕の個人的な判断である。
懐古という言葉は非常に美しく見えるし、響くなとなんとなく今回思った。しかし古きを懐かしむ気持は、古きにこだわり前進に抵抗することとは違う。古きを懐かしむことは未来の創造行為と繋がっていなければならない。それは要するに、iPodを持ち歩く音楽好きの若人の中にも何かしらのジャズ喫茶魂が息づいていると信じることが大事ということだ。