梅田望夫、茂木健一郎「フューチャリスト宣言」

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

飛行機の中で一時間ほど書けて読んだ。通常新書には一時間もかけないのだが、結果的にこの本を読むのには一時間ほどかかった。途中途中で奥さんに読書を遮られたという理由もあるが。
さて細部に関する感想を書こうかと思っていたけれど、バケーションに出発する飛行機の中で読んだものだから、今細部が頭に入っていない。「何処が面白かった?」といきなり問われたら、多分「最後の中学生への講義の部分」とかしか言えない状態である。いや、本当にそこが面白かったのだけれど。
という訳で細部を覚えていないので、ちょっと楽観とか悲観とかそういうことについて書いてみたいと思う。というのも、非常に楽観(オプティミズムとペシミズムではなく、楽観、悲観という言葉を使う)に包まれていた書籍だと感じたからだ。そしてその楽観に関する非難が少なからずあるようなので、それについての僕の意見を書いてみたいと思う。あまり長くは書かないけれど。

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梅田さんが楽観でいこうと決心しているのは、単純に彼の愛するシリコンバレーが楽観に包まれた世界だからだろう。僕もそのシリコンバレーの雰囲気には強い憧れを覚えている。そして何故シリコンバレーの楽観を彼が愛しているかと言えば、その楽観から多くのチャレンジが生まれ、そのチャレンジをインキュベートする仕組みが生まれ、そのチャレンジを尊敬する文化が生まれ、そしてそのチャレンジの中からシリコンバレーが巨大な爆発を生み出してきたからである。その爆発とはGoogleでありAppleでありYouTubeであった訳だ。この爆発が日本でも起こせるなら素敵じゃないか、単純にそういうことだろう。それを素敵と思わない人は少数派だと思うけどどうだろう。
一方楽観は多数のチャレンジを生み出すとすれば、それは多くの敗者を産んできたということになる。その事実で楽観を批判する人もいるだろう。ただその事実で楽観を悲観するならば、「大爆発が起きても、楽観の産み出した負の部分を帳消しには出来ない」ということを説明しなければならないと思う。僕にはよく分からないけれど、今当たり前のようにWEBを使っているのも大爆発の一部なのかと思うと帳消しには出来ているのでは、と思ってしまうが。
また全体を論ずるのではなく、個々人の人生観みたいなのに論点を移してしまうと「楽観はけしからん」みたいなこと言う人が出てきてしまう。まあこれだけニートやらフリーターやらが問題になっている世の中だから、「まあその内何とかなるから、今は遊べるだけ遊ぼう」みたいなキリギリス的考え方に警鐘を鳴らしたくなるのはよく分かる。年を取れば人はそういうこと言う様になるのは自然なことだと思うし、最近自分にもそんな傾向があるのだが、まあこの話は論点が違うということ、とにかく。
僕は中途半端ではない梅田さんの姿勢には尊敬に値するものを感じる。こういう役割はとにかく疲れるものだ。どこまで彼のメッセージが日本にシリコンバレー的楽観を産み出す原動力になるか分からないが、僕も微力ながらそれを達成するための一助となりたいものだ。
あ、茂木さんのこと全然書いていないけれど、彼の著作を一冊も読んだことないしブログも読んでいないので、書くほど彼のことを知らなかっただけである。