村上春樹「スプートニクの恋人」

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

本書を読んだということは、村上春樹氏の長編小説は一応全部読んだ事になる。「村上春樹ファンなの?」と問われるといつも「いや、違うよ」と答えきた様な気がするが、世間的には僕のような立場の読者は一応「ファンだ」と言っておいた方が適切なんじゃないかと思う。あくまで言動が一致していることがすばらしいことだという価値観の中の話だけど。
小説や文学作品の記録を付けるのは難しいが、このスプートニクの恋人も非常にここに何を書いたらいいのかを迷ってしまう作品であったと言える。個人的には「また居なくなる系か」という感想が一番単純な感想である。我々人間は誰かの不在によってその人間の存在を一番確かめることができるという生き物なので、ある人間が居なくなるという現象は、人が人と向き合っていく上で非常に、こういっては誤解があるかもしれないが、有意義なチャンスであると言えると思う。この作品でもすみれという女性の不在により、主人公やミュウと呼ばれる女性はすみれの存在を感じ、またそれは自分という存在を感じることにも繋がっていったであろう。
Wikipediaの「スプートニクの恋人」に以下のような記述があった。

この小説は村上自身が語るように、彼の文体の総決算として、あるいは総合的実験の場として一部機能している[要出典]。その結果、次回作の『海辺のカフカ』では、村上春樹としては、かなり新しい文体が登場することになった。

スプートニクの恋人 – Wikipedia

しかしながら、その「実験」が何であるのかを僕に読み取ることは出来なかった。「海辺のカフカ」を読み返せばあるいはその内容が分かるのかもしれないが、今のところその予定はない。小説や文学は、よほどのことがない限り読み返さないようにしている。その「よほどのこと」は極めて個人的な「よほどのこと」であることが多いのはまあさておき。
ミュウは魅力的な女性であるように描かれていたし、僕も彼女を魅力的な女性であるように想像した。が、ひとつ疑問に思ったのが「性欲という機能を失った人間が、果たしてどこまで異性としての魅力を放つ事が出来るのだろうか」ということである。性欲を失った人間が異性を強く惹き付けるようであれば、それは我々の動物的能力の低下を意味するであろうし、生命としてではなく、「人間」としての特有の魅力とは果たしてなんなのであろうか、という疑問に答えを出す為のひとつのヒントになりうる。そうではないだろうか。