ちょっといつも書いているような話と違う話題について書いてみたくなりました。ちなみに出遅れ気味の話題です。
有害情報など、ない。有害となりえるのは、それを利用する人間の方である。
本当にそうなのでしょうか。
仰る通り人間は有害になりえます。厳密に言えば、全ての人間が持っている有害な部分というのは刺激され、発動しえます。僕はそう思います。聖人と呼ばれるような人がもしいるとすれば、如何にその刺激に対して自分の有害な部分を発動させないか、そういう術を心得ている人ではないでしょうか。そしてここで話している刺激とは一体何でしょうか。情報なのではないでしょうか。人間の有害な部分を刺激しやすい種類の情報というのがこの世の中には存在しているのではないでしょうか。僕も検閲なんて反対ですが、そういった種類の情報から特に刺激を受けやすい世代を守ろうという試みが間違っているとは思えません。検閲と表裏一体なのが難しいところですが、少なくともこの試みに対する志を否定する気はありません。
みなさん、例えば自分が思いつく限りの最低最悪の人間の行為を頭に思い浮かべてください。人間の深い闇の部分を想像してみてください。例えばそういった情報が、極端な話映像情報として提供されているとします。自分の子供にそれを見せたいと思うでしょうか。おそらく思わないでしょう。「家の子は大丈夫」と思った方もいらっしゃるかもしれません。それは子供さんの「有害な部分を発動させない術」を信じているからでしょう。いずれにせよ「その情報を見せたくない」「見せても大丈夫だろう」と感じるのは、それが人間の有害な部分を刺激する情報、言ってみればそれが有害情報だと感じるからではないでしょうか。それが我が子を揺るがす可能性のある種類の情報だと信じているということではないでしょうか。
繰り返しになりますが、僕も検閲が良い事だなんてまったく思いません。ただもし国が検閲をしなくても、自分が子供を持ったときに、多かれ少なかれ検閲の様なことを僕はすると思います。少なくとも有害情報だと信じるものをすすんで子供に与えることはないと思います。子供は自分ではありませんので、何が有害情報になりえて、何が有害情報になりえないかは本当の意味で僕に判断はできないでしょう。しかしだからと言って野放しということには絶対にしないと思います。その辺りの匙加減は非常に難しくなるだろうと思います。法律を作る立場の人達だって、その匙加減の難しさに苦しんでいるのではないでしょうか。僕はそう信じたいです。