月別アーカイブ: 2023年11月

Day 1 から12年間、寝る前の読み聞かせを続けました

まだ長女が奥さんのお腹の中にいた頃に「読み聞かせをするお父さんになろう」と考え、生まれる前から絵本を買い集めました。そして誕生後、文字通り Day 1 から読み聞かせを始めました。そして彼女が12歳を迎えるまで続けることができました。その後はやはり、緩やかにですが、読み聞かせはしなくなっていきました。

ここまで続けられたことは自慢ですし、長女が読書好きなのはこのお陰だと密かに思っています。読み聞かせをしていると頭が良くなるとか、読解力が高くなるとか、情緒豊かな子に育つだとか、そういう情報が頭の片隅になかったと言ったら嘘になりますが、そういったモチベーションだったらここまで続けられなかったと思います。

私と長女にとっては、どこか儀式的な時間だったと言っていいと思います。世話しない毎日の最後に訪れる静かな時間。その日に読みたい絵本を選んで、静かな部屋でその物語を楽しむ。私も疲れていてサボりたいなという気持ちになったことも何度もありましたが、それでも続けられたのはやはり純粋にその時間が楽しかったからだと思います。

長女と読み聞かせをしなくなったのはもちろん寂しいですが、まだ次女は12歳まで数年ありますので、まだ少しだけこの時間を楽しむことはできそうです。気が付けば、私の方が絵本や児童書のファンになっていたような気がします。

そう言えば最近本棚を移動したのですが、子供たちが大きくなったら、こういう大量の絵本や児童書はどうしたらいいのでしょうね。普通に考えればブックオフやメルカリで売るか、図書館にでも寄付するか、もしくは資源ごみということになりますが、思い入れが多い本も多く、なかなか難しい問題です。

ブログを書く理由を言語化しておきたい

前回の投稿をもう少し深堀して、「そもそも私はなんでブログなんて書くのだろうか」ということについて考えてみたいと思います。

「言語化は大事だよね」と言語化しておきたい | Never Too Late (rintaromasuda.me)

ブログを書くことにはそれなりの手間がかかります。近年は音声によるテキスト入力機能の進化だったり、ChatGPTをはじめとする生成AIの登場でブログの記述コストもかなり下がったと思いますが、それでもそれなりのコストをかけています。そのコストをかけるほどの明確な理由があるのか、それこそ自分の中で整理しておきたいところです。

まずは前回の記事でも書いたように、思考の整理や言語化です。ブログを書けば強制的に自分の思考をアウトプットせざるを得ません。そして同時にそのアウトプットを自分の中に戻す、つまりインプットをせざるを得ません。そのプロセスの繰り返しそのものが言語化であり、私にとってブログの記述が言語化の有効なひとつの手段となっています。

次の理由は情報収集です。 よく言われるように、情報を集める最善の方法は情報を発信することです。私も少なからず、情報の発信者になることによって情報を得てきました。これは読者からのコメントやフィードバックということもありましたし、リコメンドエンジンなり自分で探したりなりで、自分に役に立つ別の情報源に出会えたということがたくさんありました。

三つ目の理由は人との出会いです。第二の理由とも深く関係しますが、ブログを通して同じような思考の持ち主、同じような領域で働く人、同じような志の持ち主、そういった人たちに出会うことができ、それはインターネットの外、つまり現実の世界ではなかなかありえなかった出会いであったりします。そのように人同士のクラスタリングを行う力が、ブログおよびインターネットにはあります。

そして最後に、それは何よりも私は書くことが結局好きだという理由が挙げられます。小学生の頃、読書感想文と言えば不人気な宿題という存在でしたが、私は実はあれが大好きでした。頼まれてもいないのに、勝手に読書感想文を書いて先生に提出したことさえあった気がします。当時の私が読書感想文の記述のどこに喜びを見出していたのか、楽しみを見出していたのかは分からないのですが、読書感想文を書いていたモチベーションと、ブログのそれとの間には多くの共通点があると感じています。

「言語化は大事だよね」と言語化しておきたい

ブログでもX(Twitter)でもFacebookでもそれこそ日記でも何でもいいのですが、自分の考えを書き記す訓練というのはしておくべきだと思います。今さら「言語化が大事」だなんてもはやカビが生えたような助言なのですが、言語化というのは自分の思考のアウトプットを試み、そのアウトプットしたものを再びインプットし、再度またアウトプットを試みる…といった試行錯誤の中でしか成しえないものなので、普段から定期的に自分の考えをアウトプットする場はあった方が良いという話です。

確か小説家の村上春樹さんもそのような事を仰っていたと思うけれど、書くことを通してものを考える、もう少し抽象化すると何かしらのアウトプットにより自分の思考が整理されていくという経験は多くの人にあると思う。例えば年に数十回も講演をこなす人の話す言葉に強い説得力があるのは、その人が講演をお願いされるような実績があるという理由だけではなく、数多くのアウトプットをこなすことで思考、そして話す内容がどんどんブラッシュアップされていくからというのも大きく関係していると考えます。

なぜ今このような内容を書いているかというと、最近あまり自分自身がアウトプットをしていなかったことを反省しているからです。殴り書きでもこのブログにどんどんアウトプットをして、整理された思考を取り戻したいからです。もちろん口頭のコミュニケーションでもそういった機会を設けていこうと思いますが、圧倒的に効率的なのはひとりでいつでもできる、こういった執筆活動です。

西の魔女が死んだ(梨木果歩)

今年亡くなった私の母と長女には何か特別な結び付きがあったように思っているのですが、今年ふたりに起きたことについて話す機会があり、そのときに「まるで”西の魔女が死んだ”みたいですね」と教えて頂きました。印象的なタイトルだったので書籍自体は認識していたのですが、内容はまるで知りませんでしたし、タイトルそのままにファンタジー小説なのかと思い込んでいました。おばあちゃんと孫の結び付き、というのはありふれたテーマと言っていいと思います。内容もかなりあっさりとしていて、文章量もかなり少なめ。先日母の生まれ故郷まで飛行機で行ってきたのですが、1時間ちょいのフライト往復でさくっと読める書籍でした。個人的にはケンジさんの存在が生み出すおばあちゃんと「私」の不協和音の描写が好きですね。読むかどうかは分かりませんが、概要を伝えて長女の部屋に置いておきました。

インターネットに墓を建てる

先日母が亡くなりました。春に癌が発覚してから亡くなるまであっという間の4か月でした。

母が亡くなってからそれはたくさんの事を考えましたが、そのうちのひとつが「母がブログをやっていたらよかったのにな」というものです。母は優しい人でしたが、世間一般の優しいお母さんイメージにはあまり当てはまらないような人で、どちらかというと私にとっては人生の師匠みたいな人でした。考えを押し付けるようなところは一切ありませんでしたが、人が生きる上で何を大事にするべきなのか、どのように考えて行動するべきなのか、そんな類の事をよく語ってくれる人で、私はもろにその思想の影響を受けて育ったと思います。

母が亡くなってから、そしてきっとこれからも、要所要所で母の考えに触れたくなることが出てきます。そんなとき、母がブログにでもその思想を書いていれば便利だったのにな、と思った次第です。

亡くなった母の事を今更どうこう言っても遅いのですが、私ももう人の親なので、私がそれを実践することにし、ここに新しいブログを立ち上げました。まずは二十代の頃に書いていた青臭いブログをこちらに復活させました。他のブログもこちらにどんどん集約し、最終的にはここを自分の墓にしたいと思います。千の風になるのではなく、千の記事になっていこうと思います。

とはいえもちろん技術的に課題があります。結局のところブログサービスも何処かの企業にホストされているわけで、その企業が消え去ったり、もしくは私が亡くなって料金を払えなくなればこれのブログは埋もれていってしまいます。これはどうにかしないといけません。個人的にはWEB3に期待する事のひとつがこれで、国家も含む複数の機関・組織で運営される分散型の公共ブログサービスのようなものが運営されれば(技術的にはとっくに可能)、そこに各人が生きた証を残せます。将来戸籍や住民票が分散型のデータベースに乗ることがあれば、そこで可能にしてもらえると嬉しいですね。