J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

実は先日翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)という新書を購入して読み出したのだが、どうもこの本がこの村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいることを前提にしている本だったので(当たり前と言えば当たり前だが)、そちらを一旦中断し、本書を読んでみた。おそらく本書は多くの人は思春期というか、少なくとも社会人になる前に読む類の本ではないかと推測したがどうなのだろうか。僕はもういい大人になってから本書と出会ったので、多少他の人と感じ方が違うかもしれない。

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まず何よりも、主人公のホールデンに何度も笑わされた。これは純粋な笑いである。漫才を見ているかのように何度も声を上げて笑ってしまった。ツボ、というやつだったかもしれない。読書をしているとその本の世界に入り易いたちなのだが、ホールデンが目の前で僕を笑わせようと漫談を繰り広げている、そんな気持ちになった。
本書の受け取り方は人それぞれ色々ありそうだが、僕は若い人が、それも思春期の少年少女が持つある意味での潔癖や純粋者や理想主義がテーマなのだろうと受け取った。思春期の人間が本書を読むとどうなのか分からないが、僕はホールデンに自分が高校生や大学生の頃を重ね合わせた。僕も愚かなほどの妙なこだわりと潔癖を持っていたことを思い出した。今思うと恥ずかしいのだが、「俺はペプシは飲まない」とか「ROLEXは相当なクソ時計」とかなんでそんな事を言い出したのか覚えてもいないけど、純粋にそういう妙な哲学を振りかざしていた。社会に適応する、ということに関して強く抵抗感も覚えていた。だから就職活動というものに参加しなかったし、疑いもなく皆と同じ行動をすることに関して潔癖なまでに反抗した。
誰しもにあった若かりし頃の自分。繰り返すが、今よりも愚かであり、潔癖であり、理想主義であり、純粋だった自分。ホールデンはそんな自分を思い出させる。それはさらに、今の自分を見つめなおさせる存在でもあるということだ。
という訳で、次は心置きなくサリンジャー戦記を読もうと思う。最近村上春樹訳の小説を少しずつ購入して読んでいる。そういう本の選び方も面白い。