追記。あと、なぜそう誤読するのかなと不思議に思うけど、「何でも褒めろ」なんて言ってないよ。いいなぁと思ったら(つまり心の中で褒めているときは)、以心伝心とか思って胸のうちに置いておかず、カジュアルにそれを言葉にしたらどうかと言ったのです。それだけで全体の雰囲気がずいぶん変わるでしょと。僕だって、褒めたいところがぜんぜんないのに褒める、なんてこと絶対にしないよ。
以前のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070213/1171379213で言いたかったことなのだが、1対1で話すにしろ、ブログのエントリにしろ、新聞や雑誌の記事にしろ、公演でのスピーチにしろ、人に自分の考えを理解してもらうには、どんなに厳密に言葉を選んでも、どんなに明快なロジックでも、どんなに素晴らしい声だったとしても、一回や二回では無理である。特に相手の人数が大多数なら尚更。
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ではどうすれば良いのか。僕は二通りあると思っている。
- 様々な角度や観点から、繰り返し繰り返し同じ内容を発信し続け浸透させる
- 「最低ここだけは」という一番のコアを理解してもらえば良しとする
id:umedamochioには是非1をしていって貰いたいし、本を出版予定ということなので本人もそのつもりだと思うので期待したい。僕は仕事などでは通常2の作戦をとる。つまり一回話しただけで理解可能な明確なメッセージひとつだけ(通常「○○は△△だ」くらいの短さ)をターゲットにし、残りの部分は曲解されても構わないと開き直る方法である。面倒臭いからこの方法にしているというのが正直なところだが。
だから今回の件、もしも僕がメッセージの発信者であれば「もっと人を褒めろ」というメッセージが伝わったのであればそれで良しとして(そこがコアかどうかは自身無いです)「どんな駄目人間でも褒めまくるなんて気持ち悪いぜ」みたいな曲解は放っておく。それを訂正することで「もっと人を褒めろ」というメッセージに余計なif文をくっつける結果になり、メッセージの力強さが減少するからだ。だから僕は何か強いメッセージを伝えたいときは、誤解や曲解を恐れないようにしている(引用したエントリに書いたように、曲解されるのはひどく疲れるんですが)。
自然言語が正確に伝わるというのは淡い期待である。なぜなら言葉の定義が人によって変わってくるから。「褒める」という言葉ですら、それの意味するところは十人十色だろう。それなのにメッセージが正しく伝わるわけなんてない。だから繰り返し繰り返し述べ「ひょっとして、つまり○○ということなのか」というコンセンサスを形成する方法をとるか、もしくは強烈なメッセージをひとつぶら下げて、あとはどうにでもなれというスタンスで望むのが正しい自然言語との付き合い方ではなかろうか。人間にはコンパイラは搭載されていないのだから。