二十代は模索のときブログ」カテゴリーアーカイブ

若きプログラマの価値観

基本的に商用言語って地頭が普通なら数ヶ月で覚えられるように出来ていて、逆にそうじゃなきゃ商売にならない。バッドノウハウを極めるには何年もかかるが、それこそ数年で廃れる技巧だし、会社に入って人柱として埋められてから積み上げれば済むことだ。大事なことはデータ構造とかアルゴリズムで、あとは社会に出てからの飲み込みを早めるに、オブジェクト指向っぽいCライクな言語*2をひとつぐらい覚えておけば良い。あとは大学なんだから、できるだけ世間で役に立たない才能の無駄遣い的な最先端技術に触れて、素晴らしい技術が流行るとは限らないことを思い知り、批判的な視座を持ちつつ頭を柔らかくしておいてくれることの方が重要だ。

大学で身につけるべきは技能より教養だろ – 雑種路線でいこう

今だから共感出来る文章だけれども、学生の頃というかちょっと前の僕でも共感が難しかったのではないかと思われる文章。この文面は主に大学批判だけれども、ちょっと学生側というかプログラムを側からの視点で考えてみたい。
いや、「考えてみたい」とか偉そうなこと書いてしまったけれど、結局「どんなことがかっちょいいのか」という価値観の問題なんですよ。血気盛んな学生の集まりの中でじゃあAVL木とかB-Treeのデータ構造がどういった用途に適しているだとか、SICPでLispの素晴らしさが分かったとかそういう話と、RoRでクールなページがさくっと出来たぜとかFLASHでカッチョいいアニメーションを作ったとかいう話とどっちが周りの人間に響くかといったら巧者な訳ですよ*1。そんな状況の中で硬派に教養を身につけようと考えられる学生というのはかなり筋の通った人間ではないかと思う訳です。事実、僕の勤めている企業に若いエンジニアが毎年は入ってくるけれど、硬派なデータ構造とかアルゴリズムとかフリップフロップとかそういう所を勉強しようなんてやつは滅多にいないです。基本はやれAJAXだRoRだっていう方向の話にみんな行っちゃいます。
僕も本郷の学生には軟派な方向に行ってほしくないって思うし(当然他の大学の情報系もそんな方向には行ってほしくないが)、それをしなければ明日の日本のIT業界なんて本当見えてこないんだろうけど、若い頃の価値観っていうのは結局周りからどう思われるのかってのがほとんど全てだろうから、自分の何分の一かってくらいしからプログラムを理解していない奴が自分よりも賞賛を受けている現状があるとしたら、そっちの方向に基本的には行っちゃうだろうなーと思います。

*1:江島さんのエントリを批判している訳ではないです。念のため。

成果主義が才能ある若者を潰すかもしれないという話

「成果主義」と聞くと、若く才能溢れる新入社員に大きなチャンスがありそうな気がするが、結局それは運用次第ということになる(まあ、世の中の大抵の事は運用次第だけど)。なにが「成果」なのか、を規定するのが古くからいる社員であったり、現在の体制で高評価を受けている人間だったりすると、悪意がなかったとしてもどうしても「現在の体制を守る」方に力学が働き、今現在自分がやっていることを高く評価する、もしくは新入社員が持っている「自分たちには不足している能力」を評価しないという体制が出来上がってしまう。これは僕だってそうだけれど、誰だって今の自分のポジションを脅かす様なことを積極的にする事はない。
それに「成果」というものは今までの社内での経験の積み重ねに大きく左右されるものである。極端な話であるが、会社の湯飲みが何処にしまってあるのかを知っているお茶汲みと、それを知らないお茶汲みの評価には大きく差が出てくるであろう。もし新しいお茶汲みが類い稀なるおいしいお茶を作るセンスを持っていたとしても、それがうまく評価されないようなレジームを作ってしまえばそのお茶汲みが評価されない様に仕向けるのは以外と簡単である。「お茶だけうまく入れられても駄目だよね」、「(社内的な事情)に詳しい○○さんはやっぱり凄いよね」的な発言が出てくるようなら、それは若者潰しの傾向の一つなんじゃないだろうか。

貧乏臭いプログラム

ユーザインタフェースのプログラムといえばすっかりグラフィカルユーザインタフェース(GUI)があたりまえになりました。ところが最近の計算機はメモリもディスクも大量に装備しているし CPUパワーも従来とは比べものにならないのに、意外と貧乏臭いインタフェースが生き残っているようです。

ÉÙ¹ëŪ¥×¥í¥°¥é¥ß¥ó¥°

もう何年も前に書かれたと思われる、現在Appleにお勤めらしい(凄いですね)増井俊之さんによる文章。誰にでも思いつきそうな「コロンブスの卵」的な話であるが(この言葉のこの使い方ってあっているのだろうか)、非常に示唆に富んだ文章であると思った。というか、現在もここに書いてあるような話は実体験として感じている。僕が開発に関わるERPシステムは個人向けでなく企業向けということもあってUIは重用視されていないことと合わさって、かなり貧乏臭いUIをユーザに提供している。僕らは自分で描画するような事は無いけれども、ここに書いてあるような「検索キーワードが変更される度に検索する」といった様な動きはまだまだ実現されていない。しかもクライアントがブラウザではなく、表現力が豊かだとされているWindowsアプリケーションであるにも関わらず、だ。
しかしよくよく考えてみると、企業向けのソフトウェアが個人向けソフトウェアよりもUIが弱くていいなんて不思議な話だ。企業向けのソフトウェアは仕事の効率、つまり会社の業績を左右する存在であるのに対し、個人向けのソフトウェアは個人の娯楽や趣味の為の存在であることも多い。だとすればエンドユーザの効率を大きく左右するUIに多くの関心が払われても良さそうなものだが。我が社だけの状況だろうか。それともバッチ処理等に掛かる時間が大きすぎて、UIにおける効率の向上なんてものは無視出来る程小さいということなのだろうか。

Now, not-native English speakers are the main stream

とするとテーマは別だ。世界共通語が英語だというのは分かったが、それはいったい誰のバージョンの英語なのか、ということになる。英語を母国語とするネイティブ・スピーカーと、外国語として英語を使う非ネイティブ・スピーカーの比率は今や1対3。ネイティブの3倍もの人が外国語として英語を使っているのだ。これからさらに何百万という人たちが新たに英語を勉強し始めるに連れて、この比率の開きはどんどん大きくなる。

http://news.goo.ne.jp/article/ft/world/ft-20071130-01.html

英語は世界の共通語というのは勿論なのだけれど、「どんな英語」がその趨勢なの?という話。英語のネイティブだ母国語だいう立場の人の三倍以上の人が世界にはいて、当然それらの人々が触れ合う機会が多くなってくると、ネイティブスピーカーの英語だって非ネイティブスピーカーの英語に飲み込まれていくんだよ、という現状を分析している。非常に良記事のように感じた。
しかしここ日本ではどこ吹く風、という感じがしてしまうのは悲しい現状ではないだろうか。「日本人英語」とでもいうべき訛りや間違いの癖というのはたくさんあるのだろうけれど、それらが英語そのものに影響を与える程には日本人は英語で情報を発信できていないのではないだろうか(もちろん、中国とかと比べてしまっては絶対数が違いすぎるけど)。
この記事の主題とは違うけれど、日本が必死で守っているパラダイス鎖国状態が瓦解したとき、英語を使えない人々が一気に社会的弱者に滑り落ちてしまうという可能性は意外とあるのではないかと思っている。今は英語を勉強するソースなんかそこら中に溢れている。学生も学校の英語の勉強の範囲に収まることなく、少しでも自分が国際的状況に存在することを意識しながら英語力を強化していってもらいたい。

プログラマに向いていない人

プログラマに向いている人

「後で楽が出来るように、いま面倒をしておこう」

プログラマに向いていない人

「後で面倒な事になるかもしれないけど、いまは面倒だからこうしちゃおう」

さらに向いていない人

「こんなのこうすりゃ楽勝じゃん。うっしゃー(気づいてもいない)」

2007年度の今年の一冊

自分の中では年末恒例の「今年の一冊」の時期がやってきた。これは僕が極めて個人的に「今年はこんなことがあったなぁ」と思い出しながら、ベストセラー小説を買って読むというだけの企画であり、過去には下記のように本をセレクトした。

書籍
2003年 バカの壁 (新潮新書)
世界の中心で、愛をさけぶ
2004年 東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
2005年 信長の棺
2006年 わたしを離さないで

「今年はどうしようかな」と少しだけ真剣に考えたのだけれど、今年は小説はやめることにして、テクノロジー業界に身を置きながらも、「やっと」というか「ようやく」というか「まだ読んでいなかったのかよ!」と言われそうなイノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)を読んでみることにした。今年は思うところの多い一年だった。色々と楽しんだことも多かったけれど、分かりやすい形で苦難も多い一年だった。来年はこのブログのタイトルに合わない三十代に突入する。自分のこれからの歩む道を意識しながら、クレイトン先生の名著のメージを捲りたいと思う。

池田信夫「過剰と破壊の経済学」

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

梅田本も勿論そうだけど、ソフトウェアや通信など、所謂IT業界で活躍する若き人材や、将来それらの業界を目指している学生達にはこの「池田本」も是非読んでもらいたい。なぜかというと、この池田本で今僕らが属している世界というのはどういう世界なのか、どのように成り立ったのかを総覧出来るからだ。この池田本で自分達の属している世界の構造をしっかりと把握してから、梅田本を読んで夢や将来像を作り、それを達成する為の戦略を練ってほしい。
本書は「ムーアの法則」(他にもたくさんの「○○の法則」があるようですが)を中心とするメモリの集積度の向上、記憶装置の大容量化や通信の速度の向上などの急速さが、いかに今我々が属している世界のルールを破壊してきたのか、そして破壊していくのかについて書かれた、いわば現代のIT社会の生態を説明した図鑑の様なものである。著者はブログで有名な池田先生である。相変わらずの豊富な知識と筆力のおかげで、池田先生のブログの読者である僕にもつまらなさを感じさせることにの無い内容になっている。世界には色々な人間がいるとは思うけれど、個人的な意見ではここまで経済とITについてきちんと勉強している人っていないんじゃなかろうか。池田先生は技術も「そんな技術がある」程度の認識で終わらせず、その仕組みまで正しく認識しているところが凄い。ちなみに「メモリの集積度はなぜ上がっていっているのか?」、つまり「ムーアの法則はなぜ成り立つのか」については非常に本書が勉強になりました。技術畑にいるのに知らない技術の話が多く、それについては自分を戒めたい。
最近ウェブ・リテラシーが話題になったけれど、ウェブをはじめとするこのところの技術革新は我々労働者間の生産性を大きく向上させている(生産性の向上というよりは、コストの低下と言った方が良さそうだが)。逆に言えば、その流れについていけなければ皆に大きく置いてきぼりをくらう社会になってきているということである。ここまでコストを下げてくれる技術が溢れているのに、それを利用せず、いつまでも旧来のやり方に頼っている上の世代を見るともどかしく思うが、自分も下の世代からそう思われないよう、常にこの流れを監視していく必要があるだろう。それこそ池田先生の様に勉強していきたい。そういう話だ。

山本博「フランスワイン 愉しいライバル物語」

フランスワイン 愉しいライバル物語 (文春新書)

フランスワイン 愉しいライバル物語 (文春新書)

こういうワインの楽しみ方というのは、もしかしたら競馬の楽しみ方と似ているのかもしれない。どの馬とどの馬がライバルであるとか、そういう関係はまあ我々が勝手に決めていることである、がそういう関係を仮定すると、レースが非常に愉しくなる。競馬にはずいぶんはまった時期があったが、そういう関係を見つけ出すごとにはまっていったという記憶がある。
本書は弁護士であり、世界ソムリエ・コンクールの日本代表審査員も務める山本博氏によるフランスワインの解説書である。功名にフランスの有名ワインを二つ一組で、つまりライバル関係にしたてあげて(勿論生産者の方やファンの方には強いライバル意識を実際に持っている方も多いと思うが)紹介している。氏はめっぽうワインには詳しいし、それにまつわる料理や歴史、地理の知識も驚くほど豊富なので、ワインファンにとってだけでなく、フランスという国のファンにとっても非常に面白い内容となっている。はっきり言って、読んでいると喉が渇くし、おなかが減ります。
それにしても山本氏、彼よりワインに親しんでいる日本人って居るのだろうか。うーん、今度フランスに行くとき、僕も連れて行ってほしいです。本気出してそう思いました。

村上春樹「スプートニクの恋人」

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

本書を読んだということは、村上春樹氏の長編小説は一応全部読んだ事になる。「村上春樹ファンなの?」と問われるといつも「いや、違うよ」と答えきた様な気がするが、世間的には僕のような立場の読者は一応「ファンだ」と言っておいた方が適切なんじゃないかと思う。あくまで言動が一致していることがすばらしいことだという価値観の中の話だけど。
小説や文学作品の記録を付けるのは難しいが、このスプートニクの恋人も非常にここに何を書いたらいいのかを迷ってしまう作品であったと言える。個人的には「また居なくなる系か」という感想が一番単純な感想である。我々人間は誰かの不在によってその人間の存在を一番確かめることができるという生き物なので、ある人間が居なくなるという現象は、人が人と向き合っていく上で非常に、こういっては誤解があるかもしれないが、有意義なチャンスであると言えると思う。この作品でもすみれという女性の不在により、主人公やミュウと呼ばれる女性はすみれの存在を感じ、またそれは自分という存在を感じることにも繋がっていったであろう。
Wikipediaの「スプートニクの恋人」に以下のような記述があった。

この小説は村上自身が語るように、彼の文体の総決算として、あるいは総合的実験の場として一部機能している[要出典]。その結果、次回作の『海辺のカフカ』では、村上春樹としては、かなり新しい文体が登場することになった。

スプートニクの恋人 – Wikipedia

しかしながら、その「実験」が何であるのかを僕に読み取ることは出来なかった。「海辺のカフカ」を読み返せばあるいはその内容が分かるのかもしれないが、今のところその予定はない。小説や文学は、よほどのことがない限り読み返さないようにしている。その「よほどのこと」は極めて個人的な「よほどのこと」であることが多いのはまあさておき。
ミュウは魅力的な女性であるように描かれていたし、僕も彼女を魅力的な女性であるように想像した。が、ひとつ疑問に思ったのが「性欲という機能を失った人間が、果たしてどこまで異性としての魅力を放つ事が出来るのだろうか」ということである。性欲を失った人間が異性を強く惹き付けるようであれば、それは我々の動物的能力の低下を意味するであろうし、生命としてではなく、「人間」としての特有の魅力とは果たしてなんなのであろうか、という疑問に答えを出す為のひとつのヒントになりうる。そうではないだろうか。

ユーザというのは今抱えている顧客のことだけではない

「ユーザの為にはこうするべき」
「それをやっちゃうとユーザに迷惑がかかる」
「ユーザはこう言っている」

こういった言葉を聞くとき、その「ユーザ」という言葉の中に「将来我が社の製品を買い、使ってくれるであろう人」は含まれていないことが多い。あくまでそれは「今抱えている顧客」の事を言っているに過ぎない。
勿論今現在製品を使ってくれている人が重要でないわけではないが、あまりにもそちらに傾いた思考が目立つなあ、というのが僕が仕事をしている上でよく感じる事。

「その変更、ユーザは喜ばないよ」

本当にそうだろうか。よく考えてから、つまり「今とこれから」を考えてからそう言ってもらいたい。