#! /bin/csh echo '!!error!!'
上記の様にechoで!!という文字列を出力しようとすると、何故かコマンドとして認識されてしまい、OSが覚えている最後に実行されたコマンドが実行されてしまう。
これで今日の2時間くらいを無駄にした。。。
#! /bin/csh echo '!!error!!'
上記の様にechoで!!という文字列を出力しようとすると、何故かコマンドとして認識されてしまい、OSが覚えている最後に実行されたコマンドが実行されてしまう。
これで今日の2時間くらいを無駄にした。。。
計算力を強くするpart2―思考の瞬発力を磨くために (ブルーバックス)
いわゆる暗算のテクニック本。本書を読むと、例えば二桁の掛け算とか、二桁以上の足し算などを有効に暗算する方法が得られる。それらの方法は言われてみれば当たり前のことばかりであり、簡単に式を変形することにより求められる公式の様なものばかりだが、普段人間は暗算をすることに対してそこまで情熱をつぎ込むことは少ないと思われるので、大抵の人は目から鱗的な印象を持つのではないだろうか。
個人的には暗算が出来る、暗算に強いというのは意味あることではないかと思っている。計算が早いということにそんなに意味はないかもしれないが、何かについて思考する際、計算が面倒くさくなって思考が中断されてしまうのは結構経験としてあると思う。すんなりと値を計算出来るとすれば、散歩中にたまたま思いついたビジネスアイデアの有用性を、その散歩中に検討するといったことが出来る。それは意外と大切なことなんじゃないかと思う。計算力にはそういう効用があると思っている。
正直に言うと、面白かったのは第1章のみであり、特に第3章や4章は無理矢理ページ数の為に付け足した文章なのではないかという印象を持った。まあ1章だけでは本として成立しない短さなのかもしれないが、内容はほとんどそこにある。そんな本だった。
うーん、うまいタイトルは付けられなかった。
「食い逃げされてもバイトは雇うな」を読むと、「Web2.0ブーム」を引き起こした一番の原因がそのネーミングにあったこと、「ゲド戦記」の宣伝に使われた「宮崎五郎 第一回監督作品」というキャッチフレーズがとても戦略的であったことなどを、丁寧に解説してあり、山田氏がこの手のタイトルやサブタイトルを通したマーケティングに関してとても深い洞察力を持つ人であることが良く分かる。「さおだけ」がミリオンセラーになった理由は、そのタイトルにあったのである。
マーケティング上というか営業上というか、タイトルが非常に重要な役割をしているのは間違いないのだが、最近どうも書籍にしろ映画にしろ、「狙ってんだろうなぁ」というタイトルを見ると、まるでそれらが「買って!買って!」と僕に問いかけてきている様な気になってしまい、冷めてしまう(勿論関心することも多いのだが)。
特に翻訳本に顕著なのだけど、売れようとするばかりに「おいおい、そりゃあ誤訳だろ」とか「どっから来たんだこのタイトル」とかそんな風に思わされることも多く、タイトル喰いのこの世界にこれでいいのかと疑問を持ってしまう。なんか映画や小説だと「愛」とか「恋」とかそういう文字を入れると売上が大分違うみたいな話があるみたいだし、経済本やビジネス本でもそのときそのときに流行っている概念とかをタイトルに組み込んだ方が売れ行きも上がるんだろう。
まあたとえタイトル喰いの傾向があっても、中身があれだったら結局淘汰されるんだから問題がないのではないかと経済原則を信じてみたりもするが、ちょっと心配になりますよ。世の中にこれだけ「○○の品格」とかそういう言葉が出回ったりしてるの見ると。
しかしひとつ疑問に思うのだけど、タイトルを勝手にいじられる原作者はどういう気持ちなんだろう。その方が売れるというのもあるだろうし、その国の言葉とか言葉の持つニュアンスを知らないから口出しも難しいんだろうな。
Google Notebookを何気ないきっかけから使い始めたが、これが非常に便利。特にFirefoxのExtensionを入れると非常に便利。汎用的なツールなので使い方は様々だと思うが、僕は雑多に使いつつもToDoリスト的な使い方をしている。
このGoogle Notebookは各自が公開する事も可能な様なので、プロジェクト管理なんかにも使えるんじゃないかなと思う今日この頃。
僕は「コミュニケーション能力が売りです」とか「エンジニアにもコミュニケーション能力が求められる時代」とかそういう意見があまり好きではない。勿論最低限のラインというものは存在するだろうし、第人数の聴衆を相手に自分の意図を明確に伝えれられるとか、相手がどんな人間であっても取り入ることが出来るだとか、そういう人より優れた能力を持っている人間もいるだろうと思う。
でも1エンジニアとしては、世間一般でコミュニケーション能力なんて呼ばれて評価されるような人間の行動なんてのは以下の様などうでもいいことだろうと斜めに構えてしまう。
例えばある事象Aが起きて、それを部長に伝えなければならないとする。
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特にはてブを付けられることを意識してブログを書いている訳ではないが、なんとなく被はてブ数が100に近づくにつれ意識をしていた。
『二十代は模索のときブログ』 の新着エントリー – はてなブックマーク
だからどうという訳でもないが、何となく嬉しかったので記録しておく。
最近どうも携帯小説の話題を目にする。id:umedamochioさんが以下の様に書かれていたり、
「中央公論」の「時評」欄を担当しはじめて半年が過ぎた。今回が七回目。
次号テーマは「ケータイ小説」ブームで書いてほしいとのリクエスト。
でも在米ゆえ「ケータイ小説」のサイトなんて一度ものぞいたこともないし、書籍化された「ケータイ小説」のベストセラーも読んだことがない。
Tim O’reillyが以下の様に書いていたりと(The Economistに携帯小説関連の記事があったらしい)。
The article makes a point that we’ve previously remarked on regarding YouTube, the fact that the medium changes the preferred format. Existing novels didn’t work. A new type of novel was developed that suited the medium and the audience. However, bestsellers from the keitai have begun to bleed back into traditional media, with one author landing a traditional book and movie deal.
http://radar.oreilly.com/archives/2007/05/mobile_phone_no.html
僕は本の変わりになる電子機器にはそれなりに注目しているのだけれど、どうも携帯小説には否定的な立場だ。おそらく現段階では、コンテンツが携帯電話の中心ユーザである十代の若者、それも女性をターゲットにしたものがほとんどではないかと思う。実は一度も携帯小説は読んだことがないので、梅田さんの言うとおり論じる立場にはないのであるが、今まで得た情報からはその様なイメージを持っている。
ま、今後要注目の一分野ということで。
なんか世間はPerlとPHPみたいだけど(それもちょっと前か)、ちょっとJavaについて言及したくなったので。
Java言語を発明したジェームズ・ゴスリング氏は、サン・マイクロシステムズの副社長でフェローでもある。同氏は2007 JavaOneでeWEEKのシニアエディター、ダリル・K・タフトの取材に応え、Javaオープンソース化、Javaプラットフォームの新たな方向性とプログラミング全般、新しいサンの技術とマイクロソフトとの競争について語った。
Google 翻訳は、自分の言語で他言語のコンテンツを利用するお手伝いをします。例えば、日本語で英語の情報を探したり、英語でフランス語の情報を探すことができます。
Googleの翻訳へのアプローチが統計的な手法に基づいているという記事を以前どこかで読んだ。そのときからいつか考えなければならないと思っていたのだが、今後自動翻訳の技術が進む中で、英文読解の能力というものの位置づけはどう変わっていくのだろうか。特に僕は「英会話もいいけど、英文読解の方が重要かもよ」といったポジションで英語について色々言ってきたところもあるので。
いずれGoogle Book Searchと自動翻訳の技術が組み合わされば、世界中の本も「ある程度の翻訳精度」で自言語で読める様になるかもしれない。それにあと本の変わりになるデバイスの物凄いものが出れば、読書ライフも大きく変わるかもしれないな。これは有機ELとかそういう技術の行き着く先だろう。
今はまだ英文読解の能力は間違いなく必要だろうからまだ深く考えないけれど、教育関係者とかはそろそろ真剣に考え始める必要があるだろう。
実は先日翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)という新書を購入して読み出したのだが、どうもこの本がこの村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいることを前提にしている本だったので(当たり前と言えば当たり前だが)、そちらを一旦中断し、本書を読んでみた。おそらく本書は多くの人は思春期というか、少なくとも社会人になる前に読む類の本ではないかと推測したがどうなのだろうか。僕はもういい大人になってから本書と出会ったので、多少他の人と感じ方が違うかもしれない。
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