二十代は模索のときブログ」カテゴリーアーカイブ

レッテルを貼るという行為は思考停止方法のひとつ

レッテルを貼るというのは、簡単に思考停止する方法のひとつでもある。「あの人は○○だから」とか「あそこの会社は△△だから」なんていう発言が代表例かと思う。そういう発言をしてしまうこともあるし、聞く事も多くあるが、「なんで○○だとそうなるの?」、「なんで△△だとその結論になるの?」と問いかけてみると、何かしらの論理的な考察が裏にある発言だったのか、それとも単にレッテルを貼付けて思考停止に陥っていたのかが分かる。気をつけていないと、大抵後者だったりする。
ちなみにこのレッテル貼りは有効活用もできる。まずよくあるのが、敵対する人や組織にレッテルを貼付けてしまうことである。上手くすると、その人や組織の回りにいる人間を思考停止に陥らせることができ、何かあったときに「やっぱりあいつらは□□だから駄目なんだよ」というような非論理的なイメージによるダメージを喰らわせることができる。もうひとつの有効活用方法は、特に結論を出す必要もないけれど話を終わらせなければならなくなったときに、「まああそこの会社は××だからね」と適当なレッテルを貼って話を終わらせるという使用方法。まあ意識せずとも、皆日常的にしていることだと思う。
いずれにせよ、思考停止には気をつけたい。

次世代IT産業論考(浜口友一)

テクノロジー : 日経電子版
たまたま目を通してみたが、かなりまともな事が書いてあってビックリ。こういう考え方を持っている人がNTTデータみたいな大きなSIerに取締役として存在するのであれば、日本のシステム屋さんの将来もそう暗いものではないかもしれない。

上達のヒント「なぜ自分の名前なのに字が上手に書けないのか?」

上達について考えるとき、いつもこの「なんで自分の名前が上手に書けないのか?」について考えるようにしている。同姓同名の人は何人かいるだろうけれど、その人達を除けば僕ほど僕の名前を書いた事がある人はいない。なのに僕が書く僕の名前の字は、お世辞にも上手いとは言えない。これはどうしてなのだろうか。
簡単に言えば、答えは「何も考えないで、ただ書いているから」である。今まで人生で何千回と自分の名前を書いてきていたが、その機会の一回ごとに「どう書けば、僕の名前はもっと美しく見えるだろう」というような事を意識して書いていたとすれば、今頃世界一の書き手になっていただろうと思う。
これとまったく同じ事は世の中のほとんどの事に対して言える。スポーツの反復練習なんてのは(野球の素振りとか)まさにこの典型的な例である。でもプログラミングだって、接客だって、力仕事だって、何も考えずにただ「こなす」ことだけを考えていれば、僕がいっこうに名前を上手く書けるようにならないのと同じように、ある程度以上のレベルには到達できない。

iTunes Uで見つけたお勧め講演

ちょくちょくiTunes StoreでiTunes Uのコンテンツをダウンロードしては通勤時間に聴いている。一昔前を考えれば、米国の大学の講義や講演を手軽に、早く、そして無料で手に入れられるなんて事は奇跡に近い。特に米国の大学や大学院に留学することがひとつの夢だったりする僕にとってはこれはかなり嬉しいことでもある(ちなみにこの夢はまだ全然あきらめていない)。今所有しているiPodがMovieに対応していないので音声のみのものを聴いているが、iPodを買い替えた暁には映像付きの作品も積極的にダウンロードする予定。
リンクが貼れないので紹介しづらいけれど、以下がお勧めのもの。どちらもタイトルをStoreで検索すれば見つかると思います。

John L. Hennessy – Why Computer Science Matters

Stanford Universityの学長でもあり、パタヘネ本(asin:482228266X)の著者としても有名なジョン・ヘネシー氏による講演。なぜコンピュータ・サイエンスが重要なの?素晴らしいの?凄いの?といったことについて氏が11の理由を挙げている。非常にクリアな内容だし、氏の英語ははっきりとしていてかつ緩やかなので聴き易いと思います。

Thomas L. Friedman – The World is Flat

講演と同じタイトルの名著(asin:4532312795)を題材にした、The New York Timesのスターコラムニスト、トマス・フリードマンによるMITでの講演。氏が何故この本を書くにいたったのかという話から始まり、氏が経験した世界が平になっていると痛感させられる経験が語られる。氏は非常にユーモアのある方のようで、所々で聴衆の大爆笑を誘っていた。当然本の内容と講演の内容は被っているので、一度本を読んでから聴いてみると理解度が増すかもしれません。

仁志敏久「プロフェッショナル」

プロフェッショナル (祥伝社新書 107)

プロフェッショナル (祥伝社新書 107)

床屋の待ち時間対策に適当に買ってしまった本だったが、大当たり。こういった「考える選手」的な本はいつかイチロー選手絡みで出版されるんじゃないかと思っていたが、よくよく考えれば一流のスポーツ選手とは日々このように自分のプレーについての深い考察を深めている訳で、それをある程度抽象化した形で提供してくれれば面白くない訳が無いし、我々の仕事にも応用出来ることはたくさんある。
という訳でこの本は全ての職業人にお勧めできる内容の金言ばかりです。以下に一部掲載します。本書のエピソードで一番面白かったのは、やはり著者の高校時代の恩師のエピソードだろうか。こういうキャラクターって今はあんまりいないんじゃないかなぁ。「どんな打ち方だっていいんだよ。その打ち方の天才になればいいんだから」。すげー。
p.35

その場その場で、行き当たりばったりのプレーをせず、まずは冷静に状況判断をし、次にどんなプレーが必要なのか、また、どんな作戦を相手は仕掛けてくるだろうか、と頭を働かせてプレーをするべきです。

p.56

チームワークという言葉を”なかよし”的な意味で解釈している人が多いと思いますが、私は仲がいいからチームワークに発展するとは思いません。

p.64

とくかく先の塁を目指したのです。なぜなら若いうちであれば特に、行ってみなければ始まらないのです。慎重になってばかりでは成長もしません。とにかくトライする。やらないで叱られるのだったら、やり過ぎて叱られるほうが身になると思います。まずはそれが大事だと考えています。

p.160

しかし、よく考えていただきたいのですが、失敗や型どおりできないと”基本だ”の一言で片付けてしまう。基本ていったいなんなのでしょう。

p.175

「どうしたら野球が上手になるのか」
その答えは、「どうしたら野球が上手になるのかを考えること」。

中島聡「おもてなしの経営学」

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書)

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書)

セット販売の様相を呈していたけど、まずはこっちから買ってみた読書禁止期間中の僕。感想を単刀直入に言うと「後二人くらい対談相手を増やして、完全な対談本にしとけば良かったのでは」ということ。つまり対談については読み応えがあると感じたのであるが、それ以外はどうしてもブログの内容の切り貼りの印象が拭えず(いや、じっさいにそうなんですけれど)。おそらくほとんどの人が対談内で語られている中島さんの過去の実績が一番印象に残る書籍だと思われ、そういう意味も込めて「中島聡伝説」とかそういうタイトルで売り出しても良かったんじゃないかと思う次第。レーサーの中嶋悟氏となんか間違えられそうだけれども。それは冗談だけどそれくらいこの人の実績は凄い。対談中にもあったがこれからもうひと花もふた花も咲かせてやろうという方なので、あまり過去の実績をひけらかすまねはしたくもないだろうけど、若いエンジニアの為を思えばもっとそういう事を世に出してもらってもいいんじゃないかと。ロールモデルとして、ね。

大企業が仕組みを提供し、個人が創造性を発揮する世の中

家のMacbookにWindows Vistaを入れてみたついでに、Visual C# 2005 Express EditionXNA Game Studio 2.0をインストールし、ヘルプに付いてくる簡単なチュートリアルに従って3Dアニメーションを作ってみたが、これに驚いた。3Dアニメーションなんて一部の専門家が作成し、我々はそれを楽しむ立場にしかないと思っていたのだが、既に我々自体がクリエイターになる時代になっていたようだ。時代に遅れていたことを痛感する。
しかしこのXNAを通して本当に学んだことは大企業はその資本を生かして仕組みを提供するのが役割で、個人はその仕組みの上で創造性を発揮するのが役割という今の世の中の仕組みである。当然こんなことは何年も前にどこかで誰かが提唱していただろうし、どっかで聞いた事はあったけれど改めて実感。ちょっと前までは仕組みの提供からコンテンツの提供までの大資本が行っていたはずだったと思う。僕がファミコンをやっていた小学生時代は間違いなくそうだったはずだ。けれど今は、実に様々な分野でコンテンツが個人、もしくは小規模な集団から生まれるようになってきている。その波が3Dにまで来ていたということだ。
で、これからの若いエンジニアが自分の進路を考えてみる上でちょっと考慮に入れるといいんじゃないかと思ったのが、一体自分はどちら側に属するのがハッピーなのかということ。大きな企業や組織に属し、大きな技術的枠組みや仕様の策定を行っていくのがハッピーなのか、与えられた仕組みを利用して創造性を発揮する、具体的に言えばコンテンツを提供する立場に属するのがハッピーなのか。それともその間くらいの仕事、例えばより小さな枠組みを提供する立場に属するのがハッピーなのか、そんな視点ももってみてはいかがだろうか。
なおこちらでXNAのビデオチュートリアルを見る事も可能。こちらはXNA1.0を前提にしたチュートリアルなので若干ソースコード上の違いがあるが、XNAでどんな仕組みが提供されているのかを理解するには十分な内容だと思う。興味がある方はちらっと見てみて下さい。

Wの選択で悩み過ぎるようだったらHを考えろ

「どの会社に就職しよう」
「どこに住もう」
「どの人と付き合おう」
「どちらの道を選択しよう」

人間は往々にしてWhat、When、Where、Who、Whichの選択で悩んでしまうものである。ただ悩んでいるということは、選択肢はどれも似たり寄ったりということである。似たり寄ったりというよりは「あちらを立てればこちらが立たず」という場合がほとんどだろう。「やりがいがあるけど給料が低い仕事」と「給料が高いけれど、地味できつい仕事」とかそういう選択。ここで「やりがいもサイコー、給料も高いしきつくはない」なんて選択肢があれば皆それを選ぶだろうけれど、結局そう上手くはいかない。
僕はこういう選択の岐路に立ったときに迷わない。大抵どんな事でも決断することができる。でもその秘訣は何かっていったら、はっきり言って決断自体はもうどうでも良く、選択の段階から「どれを選ぶかではなくて、選んだ後にどうするかだ」ということばかり考えているから即決できるのである。つまり頭がすぐにHowに行ってしまうので迷うことがない。何かそういう性格みたい。
選択はもちろん大事。だけれども選択自体に大きなコストをかけてしまうのは本末転倒。選択肢のどれもが一長一短だと感じるレベルまで絞れたのであれば、あとは「どれを選ぶのか」でなく、とりあえず選択してしまって「どうやって自分の選択肢が正しかったと思えるようにしていくか」が大事だと思う。

人の専門性を活かさない国、日本

博士の就職難、というのは何とも悲しい話だが、報道等によれば事実みたいだし、正直社会人をしばらくやってきた経験からも納得できる話ではある。

日本の博士の就職難問題は博士が100人いる村で数年前に知ったが、当時は冗談みたいな話だと思っていた。ところが、東京新聞「博士号”難民”1万2000人の嘆き」なんかを読むうちに次第に深刻さが伝わってきた。最近のニュースだと、職が見つかりやすいと思われていた工学系でも平均すると出願者の競争倍率が0.65倍だとかで、倦厭されているのがよくわかる。詳しくは下の記事参照。

http://w-it.jp/shima/2008/03/post_27.html

日本の根底に流れる平等意識というのは根強いもので、これはこう書いている僕も例外ではなく、基本的には皆を皆と同じように扱わなければならないというのがこの国で育ってきた人間の自然な気持ち。そうなると、高い専門性を持った博士号取得者を日本企業が敬遠するのは至極もっともな話で、「どうせ同じ様な(専門性の高くない)仕事をやらせるし、似た様な給料を払うのだから、まっさらな若い新卒がいい」というのが何と言うか流れなんだろうと思う。
しかしこれは非常にもったいない話ではある。専門的に何かを勉強してきた人にはその何かに絞って力を発揮してもらえばいいし、他の事は大の苦手だけれども、あるひとつのことに限っては光り輝くパワーを発揮する人間がいれば、そのパワーを遺憾なく発揮出来るポジションに置いておくのが社会の為というものだろう。こう書いてしまえば「そうだそうだ」とほとんどの人は賛同して頂けるだろうけれど、実際にこれを会社や組織で実践しようと思ったら、間違いなく難しい。
逆に言うと、自分の専門性をいかんなく発揮出来ているポジションに現在就いているという人は、かなりラッキーなんだと考えた方がいいかもしれない。

そう言えば、もう長い事マウスを使っていない

表題の通りです。特に自宅では全く使わなくなってしまった。マウスがどうしても必要なのって、デザイン系の作業をするときくらいなものなんだよね。うーん、そろそろマウスの時代は終わりだろう。次世代インプットデバイスの登場が待たれる。とりあえずはタブレットPCかな。