二十代は模索のときブログ」カテゴリーアーカイブ

羽生善治「簡単に、単純に考える」

簡単に、単純に考える (PHP文庫)

簡単に、単純に考える (PHP文庫)

常々棋士の方が対局中どういったことを考えているのか興味があったので、羽生さんの話は興味深かった。直感に関する話が印象的で、論理と直感とは相反する様な認識を持っていたが、それは先入観だったかもしれない。

ただやはり「将棋は将棋、スポーツはスポーツ」という部分があるものだと実感。対談中に共通点を見出せた部分ではなく、そうでない部分がより印象に残った。

若者言葉と日本語ブーム

2005年は日本語ブームが話題となった。まあ要は「若者言葉が気になる」って話と「日本語ってこんなに素晴らしい」って話であれこれ盛り上がっていた訳だ。さらに「若者言葉が気になる」って話は所謂「やばい」とか「ありえない」とかに関する議論と、2chをはじめとするネット上での日本語に関する議論に分けられる。

議論を進めて頂くのはおおいに結構だが、日本語に対して保守的なスタンスの皆さん、言葉とは生物であり、環境に適応すべく変化していくもの」という視点をお持ちですか。簡単な話、鎌倉時代と江戸時代で言葉の使われ方が違うように、江戸時代と現代でも言葉の使い方が違う訳だ。「貴様」や「御前」という言葉は上品な言葉だったものが違う意味を持つようになったと想像するが、これと同じことが「役不足」や「煮詰まる」という言葉にも起きているっていう論理展開だって可能なはずだ。半数以上が誤用しているという調査結果があるならなおさらだ。「言葉の意味合いが変わる局面」に私達は立ち会っているのだ。かつて電話や印刷技術によりコミュニケーションが増大したように、携帯電話とインターネットが口頭、文頭両面でコミュニケーションを増幅した。しかもおそらくかつてないインパクトを日本語(というか言語)に与えており、保守層が慌てふためくのも無理のないことなのだ。

id:finalventさんが「言葉とか日本語を愛するかという人間は、なぜ生まれ出る新しい言葉の誕生のその場に驚愕しないのか」の中で

美しい言葉があるのではなく、人と人の関わりの場面の美しさが言葉のなかにsettleする。だが、新しい人間の関わりはどうしても古い言葉をつきやぶっていく。そういうものだ。

と書かれている。携帯電話やインターネットという今まで人類が経験したことのないリアルタイム性と簡易さを持つテクノロジーによって、人間同士に「新しい関わり」が生まれた。そして冒頭で述べたとおり、適者生存の理に従って「言葉」という生物が適応を試みているのだ。そしてこの適応はかならず成功する。

今後10年、20年でGoogleをはじめとする企業群によって本格的に「言語間の壁の破壊」が行われることになるだろう。そのとき言語は経験したことのない環境の変化に再び直面し、適応を試みるはずである。

加藤廣「信長の棺」

信長の棺

信長の棺

歴史小説にミステリーの要素を絡めたような感覚で読めた。非常に好印象。あまり歴史小説を読んでこなかった人間なので、理解に苦労した部分もあったし、分かっている人間だったら「こりゃ面白い」と思える部分を素通りしてしまったかもしれないが、それらの要素を差っ引いたとしても面白かった。

牛一が追い続けた信長の後姿。男として理解できる。

民主党の永田議員は鉄砲玉か

木村剛氏のエントリ[ゴーログ]ガセネタの流布には巨額賠償を!読みました。まったくもって仰る通りです。

冤罪事件のときに毎回議論にはなりますが、「○○さんが何かやらかしたんではないか」という報道によりそのような風評が立ってしまうことは、「○○さんがこれこれをした」という報道と同等、もしくはより大きなダメージを食らう。そんなのみんな百も承知。だから永田議員って民主党の用意した鉄砲玉ではないかと思ってしまったくらい。まあそんなことないだろうけど。

しかし永田議員、形勢が不利になったとき「この雰囲気は言論弾圧だ」ばりのことを言っていたけど、それって甘えでないかい?ホリエモンじゃないけど、ここまでの展開はあなたにとって「想定の範囲内」でないとおかしいのでは?彼のHPを見ると大蔵官僚出で年齢は四十前みたいだけど、若さと正義感と情熱で突っ走ってしまった行為なのかな。11も若い僕が言うのもなんですけどね。

しかしあの証拠のプリントアウト、あまりにも偽者臭くて逆に本物かとか思っちゃうよ。あ
あいうフッターの書き方する人、殆どいないけどね。少なくとも私の周りには。

しかし民主党側があのメールが真だと証明するのが困難なように、自民党が贋だと証明するのもまた困難な訳だ。そうするとどちら側も「大怪我はしない」という展開に落ち着いていく訳だね。ここからは真贋はどうでもよく、武部さんが「汚いことやってたホリエモンと組んで汚いことやってた」というイメージになるか、「選挙で大負けしたからって、鉄砲玉し立てて無理やり言いがかり付けてくるインチキ政党」というイメージに前原民主党がなるか、そういう勝負になる。しかし自民党側はこの勝負に勝ってもそんなに得はない訳だ(すでに大勝してる)。そうなると「民主党にとって悪くない手だったか?」と思わなくもないが、決定的な証拠が無いと退陣には追い込めないだろうことを考えると、やっぱり悪手だったと思う。

やっぱり戦略的にやったとは思えないな、うん。鉄砲玉ではなく若さと情熱による行動だ。その姿勢は買います。

貸切露天風呂付の部屋

貸切露天風呂

ビルの森とPCとスーツの毎日から逃れ、久しぶりに日本人の心を取り戻してきました。大浴場も悪くないけど、貸切はやっぱり凄いですね。僕は四回、奥さんは五回入りました。

旅館は箱根です。情報はこちらをどうぞ。夕食、朝食共に美味しく頂きました。

梅田望夫「ウェブ進化論」

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

発売を待ち望んでいた本だったが一気に読み終えてしまった(読み出すのが出遅れましたが)。多くのウェブの住人と同じように僕もCNET Japan時代からの著者のブログの読者だったから、この本に「何か新しい物」を見出した訳ではない。ただ著者のウェブ進化論を、シリコンバレーが生み出したGoogleという怪物の生態を、日米のネット格差を改めて体系的に読ませて頂き非常にありがたかった。本のページは綺麗にしておきたい方なのであまり折り返しを付けたりしない人間ですが、この本には随分たくさん折り返しを付けてしまった。

多数の優秀なブロガーが中身について言及しているので、書評を書くことに「いまさら僕が」的な想いが消えない。なので僕は僕なりに梅田本が、そして梅田さんが僕に与えた影響という極めて個人的なことを書いてみたい。

実は自分の中で梅田本と言えば、いまだに前著である「シリコンバレーは私をどう変えたか」である。実は同著が生まれて初めて買ったビジネス本であり、もっとも影響を受けた本であるからだ。三年前にとある古本屋で発見し、何かに惹かれて購入して以来の愛読書である。ことあるごとに読み返した。「シリコンバレー」という地名も知らなかった僕だったが、この本から知るシリコンバレーの知的なダイナミズムに物凄い興奮を覚えた。自分もその波に揉まれながらやっていける実力を見に付けなければと本気で焦った。「シリコンバレーで頭一つで食っていける人間になる」というシンプルでストレートな目標が出来た。
そして同時に同著は「自分も含めてこれから日本を担うべき若者が読むべき本」と強く認識した。ある大きな人材採用イベントを主催したときも、優秀な大学生相手に同著を推薦していた。そしてその中から一人、JTPAの第四回シリコンバレーツアーへの参加者が出たのは僕にとって非常に喜ばしいことであった(同時に羨ましくもあるのだが)。

個人的な感想が色々と長くなってしまいましたが(まあブログなんて極めて個人的なものだけど)、二冊の梅田本からより多くの人が(特に大学生に読んで欲しいというのが私の想いですが)「自分と同じような興奮」を覚えることを願って今日のエントリを終わりにしたいと思います。

※間違えて梅田さんにトラックバックを二度も送信してしまいました。ご容赦ください。

シリコンバレーは私をどう変えたか―起業の聖地での知的格闘記

シリコンバレーは私をどう変えたか―起業の聖地での知的格闘記

米国の強気な態度に対する嫌悪と羨望

米国産牛肉に特定危険部位である脊柱が含まれていたというのに、相変わらず米国は強気の姿勢を崩さない。大概の日本人がおそらく感じていると思われる嫌悪の感情を、僕自身も禁じえないというのが正直なところ。しかしトヨタ自動車がGMやフォードに少なからぬ気の遣い方をしているのが日本人らしいように、今回の件は非常に米国らしいというか米国の文化なのである。だから結局この嫌悪感も、文化のすれ違いから生じる違和感が本質としてあるに違いない。

一方で僕は米国のこの姿勢に羨望の眼差しも向けてしまう。自国の国益の為に誇りを持って闘う米国の高官達を見ながら「日本の政治家や官僚がこうだったらな〜」と考えてしまうのもこれまた正直なところである。靖国をはじめとする中韓との問題にしても、アザデガン油田開発の問題にしても、この姿勢の一割でも良いから日本の外交に取り入れてみませんか?なんて思ってしまったり。あ、なんか偉そうなこと言っちゃったかも。ちょっと話を脱線させよう。

「文化」という言葉を使いましたが、ある集団(例えば国とか会社とか)が「ある事象に対してある反応をすること」を「ああ○○国らしいなぁ」とか「ああ、あの会社がやりそうなことだよね」とか話すことがありますよね。それってその集団がどういう文化を持っているかということで決まってくるんですが、面白いことにその集団からある一人を抽出して「ある事象」に対峙させたとき、「ああ○○国人らしいよね」とか「さすがあの会社の社員だよね」とかそういう反応を見せるとは限らない。いや、むしろしない気がする。つまり集団の行動特性と、その集団に属する個人の行動特性とは違うものというのが僕の仮説。今回の牛肉輸入の問題に関しても非常に米国らしい行動を見せたと思いますが、それは米国民という集団らしい行動であり、米国人らしい行動とは言えないと思う訳です。この辺、その内組織論的な視点からもう少し詰めたいです。

ミートソースと大規模ソフトウェア

昨晩は奥さん手作りのミートソースをスパゲッティにかけて食べた。美味しい。レトルト系には戻れそうにない。こういうことの積み重ねで既婚者は太っていくのか。

ミートソースを美味しく作ろうと思えば、中に含まれるほんの小さな材料にも手の込んだ調理が必要になる。全体から見ればすごく脇役の材料たちが、高いレベルで主役と融合することで美味しいミートソースが完成するのだ。神は細部に宿るというやつ。

言わずもがなだが、プログラムなんてまさにそういう世界。それも作り出すと理解できるんだよね「ああ、Microsoftってすげーな」とか。昔音楽作ってたときも「ああYMOってすげーな」とか同じこと考えてたけど。ああ、言い忘れてましたけど僕は大企業向けパッケージソフトウェアの開発・保守がお仕事です。

そんな訳でミートソースを食べながらも、美しいソフトウェアや音楽に想いを馳せる訳です。奥さん、ありがとう。

高い集中状態に入るタイミング

本日の仕事への集中力は凄いものがあった。おそらくここ何ヶ月で一番の集中だったであろう。わずらわしいトラブルや会議が無かったこと、「ウェブ進化論」を朝の電車で読み終えてその気(どんな気だ)になっていたこと、加えて体調的な要素もあったであろう。

このような高い集中状態を意図的に生み出すことは難しくとも、集中力が高くなりそうなタイミングを知ることが出来ればハイパフォーマーへの道が拓けるというものである。コーディングに一心不乱になったときの開発者、そのとき脳はどんな働きをしているのだろう。識者が居るなら聞いてみたいものである。いっちょ人力検索してみるか。

村上春樹「やがて哀しき外国語」

やがて哀しき外国語

やがて哀しき外国語

村上さんのエッセイは大分読んでいるのせいか、どこかで聞いたことがある話が多かったように思う。でもそういう意味では村上さんらしさ溢れる一作であるとも言えるのではないか。

最近自分の中の「日本人的感覚」とでも呼ぶべきものを強く意識するようになった。外国に住むという経験(半年だけだが)の中で、日本人的感覚に気付き、ある意味嫌悪し、諦め、そして誇りを持つという段階を経てきた。村上さんのようにもっと長きに渡って日本人的感覚が通用しない世界に属していると、どのように日本人的感覚への想いが変遷していくのか。本著を読みながらそのような疑問を持った。

マラソン大会のアンケートの話は爆笑でした。