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上達のヒント「なぜ自分の名前なのに字が上手に書けないのか?」

上達について考えるとき、いつもこの「なんで自分の名前が上手に書けないのか?」について考えるようにしている。同姓同名の人は何人かいるだろうけれど、その人達を除けば僕ほど僕の名前を書いた事がある人はいない。なのに僕が書く僕の名前の字は、お世辞にも上手いとは言えない。これはどうしてなのだろうか。
簡単に言えば、答えは「何も考えないで、ただ書いているから」である。今まで人生で何千回と自分の名前を書いてきていたが、その機会の一回ごとに「どう書けば、僕の名前はもっと美しく見えるだろう」というような事を意識して書いていたとすれば、今頃世界一の書き手になっていただろうと思う。
これとまったく同じ事は世の中のほとんどの事に対して言える。スポーツの反復練習なんてのは(野球の素振りとか)まさにこの典型的な例である。でもプログラミングだって、接客だって、力仕事だって、何も考えずにただ「こなす」ことだけを考えていれば、僕がいっこうに名前を上手く書けるようにならないのと同じように、ある程度以上のレベルには到達できない。

見晴らしの良い丘から何が見えるか

突然の話になるが、この2月末で現在勤めているソフトウェアベンチャー企業を退職し、来月から新たな場所で再びソフトウェアの開発に関わる事となった。いわゆる転職である。現在勤めている企業では開発技術や開発プロセスといった直接的なこと以外にも、多くの人がひとつのソフトウェアを開発することの難しさであるとか、新人をどのように育てていくべきなのかという貴重な考察や、どういったエンジニアがどういう仕事に向いているとか向いていないとか、ソフトウェアの開発にはどのような組織で挑めばいいのか等、とにかく様々な事を学んだように思う。非常に実りのある5年間であったと思うし、そのような5年間を僕に与えてくれた関係者にはこの場を借りて感謝の意を表したい。

ドメスティックに事業を進めている現在の企業での職とは違い、次の職では海外のエンジニアと協力して開発を進める必要があり、かつ企業自体もグローバルに事業展開している為、嫌でも世界標準を意識する必要が出てくると思う。そしてそれを次の5年間の目標としたいと思っている。つまり簡単に言えば「世界に通用するエンジニア」になることが目標である。新しい職場では新しい事を身に付ける必要は当然あるだろうし、それにプラスして今現在自分が出来ることを、世界を相手にして出来る必要があるということになる。それは簡単な例ではコーディングのコメントやメールを英語で書く必要があるとかそういう事だし、別の例では日本人相手なら説得出来るような内容でも、中国人やインド人やアメリカ人でも説得出来るとは限らないので、それを彼らに通じるロジックで説得する必要があるとかそういう事である。

以前にid:umedamochioのブログで以下の様な文章が紹介されていた。次の職場はまさに僕にとってバンテージポントになるのではないかと思う。いや、そうしたいと思っている。

世界で何が起ころうとしているのかが見える場所に行け。シリコンバレーなら、まずはGoogle。GoogleがダメだったらApple。いや Yahooかな。Oracleだっていい。シアトルならMicrosoftだな。こういうところは皆、「a great vantage point」((見晴らしのきく地点、よい観戦場所)なんだ。そういう会社で職を得れば、世界でこれから何が起ころうとしているかが皆見える。the next big thingが来たとき、そこに陣取っていれば、見ることができる。

これは本当に実感のこもったいい言葉だ。短いながら、真実をついている。

若者はバンテージポイント(有利な場所)でキャリアを磨け:梅田望夫・英語で読むITトレンド – CNET Japan

別に5年後にまたどこかに移ろうとかそういう意図がある訳ではないが、5年後にまた何か大きな流れが起こっているとして、そこに参加出来ない様なエンジニアではありたくないし、理想を言えばそこに参加してもらいたいと他者から誘われるようなエンジニアでありたい。
見晴らしの良い丘から何が見えるのか。そもそも本当に見晴らしは良いのか。それを確かめる為にも、とにかく全力で丘を駆け上がらないといけない。

将来子供に「○○の勉強なんか何の役に立つの?」と言われたどう答えようか考えてみる

もし子供を授かったとして、子供が「○○(学校の教科)の勉強なんて意味ないじゃん。何の役に立つの?」と言い出したらどうしようかと考えてみる。批判があるかもしれないが、このような発言は大抵勉強が出来ない、勉強をやっていない子供から出てくる可能性が高いと思っているので、おそらくこういう事を言い出した時点で自分の子供はあまり勉強していない子なんだと思う。まだ答えなんて決まってないのだけど、例えば以下のような事を一緒に子供と考えたい。

  • 「役に立つ」とはどういう事か
  • 「役に立たない」とはどういう事か
  • 「役に立つ、立たない」を判断するというのは非常に難しいことだが、君の判断は正しいか
  • その教科の勉強が「世の中の役に立っている」例はどんなものか
  • 役に立つはずなのに一生懸命やっていないことはないのか
  • 役に立たないはずなのに一生懸命にやっていることはないのか
  • 本当に○○をやりたくないのは「役に立たない」からか
  • 一生懸命やっている子は「役に立つ」と思ってるからやっているのか
  • 「役に立つ」と思っている事だけを集めた学校というのを想像してみよう
  • 父親(自分)はどのように考えて学校に行っていたと思うか
  • 君(子供)が自分の年になったときにはどのように感じると思うか

本当は「勉強する→成績上がる→受験や推薦など有利→就職に有利」という単純な図式が成り立つと仮定するだけで(まあ成り立っていると言っていい図式なんだけど)、「勉強が役に立たない」ということはないと思っていたりするんだけど、まあ自分の子供相手にその図式を掲げるのもなんか嫌なのでそれはしないと思う。
ま、子供が勉強をしないと自分で決めたのだったらそれはありだと思ったりするのだけれど、「勉強が役に立たないから」とかいう浅く考えたっぽい言い訳を盾にして勉強をしないようであれば、それは見直してもらいたい。勉強はせずとも腕一本でガテン系で生計立てていきますよってな信念を強く持っているようであればそれはおkってか嬉しいかもしれないね。

本当に有害な情報はないのか

ちょっといつも書いているような話と違う話題について書いてみたくなりました。ちなみに出遅れ気味の話題です。

有害情報など、ない。有害となりえるのは、それを利用する人間の方である。

404 Blog Not Found:情報に有害も有益もない

本当にそうなのでしょうか。

仰る通り人間は有害になりえます。厳密に言えば、全ての人間が持っている有害な部分というのは刺激され、発動しえます。僕はそう思います。聖人と呼ばれるような人がもしいるとすれば、如何にその刺激に対して自分の有害な部分を発動させないか、そういう術を心得ている人ではないでしょうか。そしてここで話している刺激とは一体何でしょうか。情報なのではないでしょうか。人間の有害な部分を刺激しやすい種類の情報というのがこの世の中には存在しているのではないでしょうか。僕も検閲なんて反対ですが、そういった種類の情報から特に刺激を受けやすい世代を守ろうという試みが間違っているとは思えません。検閲と表裏一体なのが難しいところですが、少なくともこの試みに対する志を否定する気はありません。
みなさん、例えば自分が思いつく限りの最低最悪の人間の行為を頭に思い浮かべてください。人間の深い闇の部分を想像してみてください。例えばそういった情報が、極端な話映像情報として提供されているとします。自分の子供にそれを見せたいと思うでしょうか。おそらく思わないでしょう。「家の子は大丈夫」と思った方もいらっしゃるかもしれません。それは子供さんの「有害な部分を発動させない術」を信じているからでしょう。いずれにせよ「その情報を見せたくない」「見せても大丈夫だろう」と感じるのは、それが人間の有害な部分を刺激する情報、言ってみればそれが有害情報だと感じるからではないでしょうか。それが我が子を揺るがす可能性のある種類の情報だと信じているということではないでしょうか。
繰り返しになりますが、僕も検閲が良い事だなんてまったく思いません。ただもし国が検閲をしなくても、自分が子供を持ったときに、多かれ少なかれ検閲の様なことを僕はすると思います。少なくとも有害情報だと信じるものをすすんで子供に与えることはないと思います。子供は自分ではありませんので、何が有害情報になりえて、何が有害情報になりえないかは本当の意味で僕に判断はできないでしょう。しかしだからと言って野放しということには絶対にしないと思います。その辺りの匙加減は非常に難しくなるだろうと思います。法律を作る立場の人達だって、その匙加減の難しさに苦しんでいるのではないでしょうか。僕はそう信じたいです。

「三日坊主でいいんだよ」と言ってみるテスト

なんかポジティブ・リストとかネガティブ・リストとかの話がこちらで出ているのを読んで連想した話があったので書いてみる。日本語とかその格言とか日本という国家に流れている空気には何かとネガティブ・リストが多いんだよなぁ、って思ったのはアメリカに行ってアメリカ人の知り合いが増えてきたとき。彼らは何かと将来の計画や今学んでいる事だとかを積極的に話してくるんだよね。「将来はカリフォルニアに移ってみせるわ」とか「いまスペイン語の勉強をしているんだよ」だとかね。日本でもそういう話は当然出る。でもね、その話が出るときの実現可能性がアメリカに比べて日本はすごく高いように思うんだよ。簡単に言うと日本人は「実現出来そうになったら人に話してみる」つまり「駄目そうな段階では人に話さない」的なムードが体勢なんですな。アメリカの人はあまり「スペイン語習っているとか言っちゃって、途中で挫折したらどうしましょう」的なムードにならないんだろうな、という感想を持った。日本だとなぜか、意味もなく結果を求められるんじゃないかと怯えてしまうんだよね。別にこんなのどっちでもいいだろうと思う様な内容かもしれないけれど、このムードの中で「何かに挑戦しようとする人」が減ってしまうというのは悲しいことではないだろうか。そう思わないだろうか?「三日坊主」という言葉も日本に存在するネガティブ・リストのひとつだなと今日思いついた。これが「三日でやめちゃうくらならやらなければ?恥ずかしいよ」的なムードを作ってしまう。結果「とりあえずやってみるか」みたいな人が減る。挑戦する人の母数が減る。イノベーションが生まれない、的な流れは絶対にこの国に存在していると思う。そんなの潰したいと思いませんか?三日坊主で終わってもいいからまずはやってみるといい。プログラムをやりたいと思ったらHello, Worldとやってみればいいし、アイススケートにチャレンジしたいと思ったらすぐにでもリンクに向かったらいいし、パリダカに出たいと思ったらまずは自分の車で地元を走る事からはじめたっていいんじゃなかろうか。情熱をまずは形に変えてみたらいい。それが思ったよりも難しかったり、つまらなかったり、かっこわるかったりして嫌になることは多いにある。そしてやめたくなったらやめればいい。次の情熱を待つしかない。でもその中から輝かしい才能も多くみつかることになる。全体としては多いにハッピーになる。成功した人間が後進の人たちに向かって「才能ない奴は止めろ」なんて言う事はあまりない。それはリップサービスも勿論あるだろうけれど、多くの人間が挑戦することによってしか、輝かしい才能が生まれないことを肌で分かっているからではないからだろうか。違うかなぁ。

20071109

後悔といものをまったくしない人間である。「後悔をしないようにしよう」と心掛けて毎日を生きているとかそういうことではなく、ただ自然と後悔をしない。そういう人間である。過去にしたことを後悔する前に、新しいことに興味が移ってしまうというのも要因のひとつかもしれない。視点を変えてみると、あまり経験から学べないタイプなのかもしれない。
しかしこんな僕でもひとつだけ、シンプルにすごく後悔していることがある。しかもかなりありきたりな文句なんだけれど、それは「学生時代に勉強しなかったこと」である。「勉強しなかったこと」を後悔しているといっても「もっと勉強しておけば、もっと上の大学に入れたのに」とかそういう後悔をしているわけでもなく、「もっと学校の成績を良くしておけばよかった」とかそういう後悔とも違う。僕が後悔しているのが、あの多くの時間とエネルギーを持て余していた時期に、今自分が持っている様な知的関心を持たずして生きてしまったことを後悔しているのであろう。今現在は、世の中勉強したいこと、身に付けたいこと、知りたいことだらけだと思えるが、当時はそうではなかった。でも当時今の様に色々なことに関心を持っていたら、きっと若い人間特有の集中力でどっぷりに何かに浸かることができたであろう。そういう経験をもっとしておけばよかった、というのが僕がしている一番の後悔である。

20071107

IT業界の不人気だという話題がネットを席捲している。IT業界という言葉遣いはそろそろ使うのを止めて欲しいと常々思っているのだが、まあこの辺りの話題で語られる場合はそれがSIerのことだというのは出席者の後日談はてブを見ると既にコンセンサスがとれているようなので、ちょっぴり安心した。そしてもしもSIerが不人気だということが事実だとすると、まあ事実なんだろうけど、人が集まるべきでないところに人が集まらなくなったということで、非常に喜ばしいことなのだろう。ようやく、この間違った産業構造が崩れようとしているという訳だ。崩壊の原因が「採用が困難」ということになるとは思っていなかったけれど。
しかしGoogleのマーケティング力はあなどれないというか、それは無意識にやっているのかもしれないけれど、みんな「Googleみたいな場所で働きたい」と思いはじめたんだなぁ、ということは実感。それって意外と日本のIT産業のためになっているんじゃないかなぁ、と思う今日この頃。あ、IT産業って言葉使っちゃった。

20071031

mixiの「日記キーワードランキング」って昨夜のテレビの影響がものすごく出るんだよね。昨晩やってた映画のタイトルとか、ニュースで取上げられていた人とか会社とか。結局テレビというマスメディアが発した情報に各自のフィルタをかけてmixiの日記として載せてるわけで。なんていうか、そうやって皆が同じ行動をしているのかと思うと、それだけでうんざりしてしまう。学生の頃からそうだったんだけど、たくさんの人が同じ行動をしているところを想像すると気が滅入る。もちろんそこに僕も含まれているわけだ。それぞれは自分の考えで自分のオリジナルな行動だと思っているわけだけれど、俯瞰している人から見れば結局みな同じ。
だからって、人間なんて所詮、とかそういうことは言う気はないんだれど。

20071030

久しぶりにあの街を通りかかる機会があった。そこは寸分の狂いもなくあの街だった。寸分の狂いもなく。あのときにあった空気がそこにあり、あのときにあった言葉がそこにあり、あのときにあった気持ちがそこにはあった。ただ人だけが変わっていた。目まぐるしいスピードで僕らは変わってしまった。そして一番変わったのは僕だった。寸分の狂いもなく。

20071029

思う、のだが、外食と家庭の料理の違い、というのが何年か前に比べて随分なくなってきているのでは。外食が家庭の料理の様になってきていると思う。近年ではコンビニの弁当だとか、そういうものにまでその傾向が見られる。おそらく、これは外食をする人が何年か前に比べて増えていることの表れなんだろう。そう考えると皮肉なものである。外食が外食、家庭の料理は家庭の料理と棲み分けがあった方が人生にもめりはりがつくというものだが。