模索」タグアーカイブ

20071028

「普通のことしか求めてないのに満たされない」という心理について考えてみたい。例えば女性が男性、特に過去に恋愛関係になった男性を評するときに出てきたり、職を転々としてしまう人からも出てきそうな台詞である。「僕は私は普通の水準しか求めていない、つまり理想が高いわけではないのに、何故満たされないのか」と考えてしまう人は、その対象の色々な側面すべてに「普通の水準」を求めているのではないかと推測する。例えば結婚相手の男を測る基準として外見、収入、性格、家族構成、仕事内容、性行為の相性などがあるとする。これら全てに「普通の水準」を求めているとすると、それはかなりレアな男性というか、かなり希少でかなり条件の良い男性であろう。普通の人間であれば、例えば収入は良いけれど性格が激しいとか、見た目は良いけど頭が良くないとか、几帳面だけど神経質であるとか、そういう起伏を持っているものである。その起伏の凹みの部分に目が行くようになると結局「ああ、この人の○○は普通に比べて悪い(低い)んだろう」という視点になる。これではいつまで経っても満たされない。人間相手ではなく、職場選びなんかでも同様だ。つまり「普通でいいのに満たされない」と考える人間は往々にしてマイナス面に目がいく人間なんだろうと思う。あくまで個人的で勝手な思い込みによる意見ではあるが。

20071027

何かを猛烈にやり始めたくなったとする。例えばいきなり「今日から毎日ジョギングをしよう」って思ったりとか「絵を趣味として描いてみよう」とかそういう思いつきと突発的な情熱がセット販売されているかのような感情って誰にでもあると思う。少なくとも僕には定期的にやってくるのだ。僕はなるべくならそういう感情を殺さないように心掛けている。少なからず投資が必要な場合もあるが-ジョギングシューズを買うとかね-、それもなるべく厭わないように頑張っている。もちろんその投資が、世間で言うところの「無駄」に終わるケースが多いというリスクも承知しているが、そういう生き方なのだからしょうがない。その情熱がいつまで続くのか、どれくらい強いのか、もしかしたら本当に何かしらものにするまで続けてしまうのではないか、とか始めた段階ではまだ誰にも分からないわけで。もし自分が子供を持ったとして、子供の情熱に水をかけない親でありたいな、というのもこんな僕だから昔からよく考えている。
社会的にはそういう情熱を形に変えるためのコストがもっともっと低くなっていくと素晴らしいのではなかろうか。インターネットはそういう意味では若者の情熱を具現化するためのコストを大きく下げたはずだ。そういうことが様々な分野や場所で行われるといい。きっとすごくいい。

20071026

日本人なら電車内での人間の振る舞いに対して一家言あると思う。多くの日本人は日常生活の中で電車を利用しているのだ。だから一家言あると思う。いろいろと苦労もしているでしょうから。
かけこみ乗車というのはあれは心理的なものなのだろうか。心理的というより、動物行動学的にどうしてもやってしまいがちな行動なのだろうか。それを真面目に研究した論文でもあれば絶対に見てみたいと思う。他の国のことはそんなに知らないけれど、日本人ほどそれを研究するのに相応しい存在はいないような気がする。あくまで、気がするというだけのことなのだが。
また、どうも席に執着し過ぎる人が多い。僕は座るとそのまま眠りに入り、隣に座った人に迷惑をかけながら、自分が降りるべき駅をかなり高い確率-どの程度の確率かは恥を晒すことになるので伏せておこう-で通り過ぎてしまうので、基本的には席に座らないようにしている。そうすると、実に座席を巡る様々な人間模様が見えてくるようになった。これはこれで、なんというかワンダーランド。すごく面白い。ってなんか上から目線のようだけど、いや物理的には本当に上からの目線なんだけれど、たかが電車の座席でも、様々な物語を産み出す舞台になりうるんだって。そういうこと。

20071024

Yes-Noで回答を迫られると答えられない。いや、決断力はある方だし、優柔不断というレッテルを貼られたことも皆無だったと思うが答えられない。これは純粋に質問者側の問題だと思っているのだが、聞いた人間によって解釈の仕方が違ってくるような質問にどうしてYes-Noで答えられようか。例えばこの間、某テレビドラマの広告に「命はお金で買えますか?」という勇ましいキャッチコピーが書かれていた。この質問はまさに「答えられない質問」、「聞いた人間がそれぞれ別の解釈をする質問」なのだ。以下の様な返答が予想出来る。

  • 「いいえ、死んだ人間はいくらお金を積んでも生き返りません。」
  • 「はい、お金がたくさんあった方が、健康を長期間維持できる可能性は高いと思います。」
  • 「いいえ、貧富に関係なく医療は平等に全ての人間に提供されるべきです!だから国家は社会保障を充実し…」

どれも違った解釈をした人から出た答え。これらの人が同じ部屋に集められて議論している様を想像すると、それだけで頭が痛くなるというものだが、実際にはこういうことはしょっちゅう起こっているんだろうな。

20071023

なんと言うかもう少し、ブログを文章の練習の場として使ってみてもいいのではないかと思った。別に文章の練習と言っても作家を目指している訳でもなければ、ビジネス文書を論理的に分かり易く書く為の努力をするとかそういう訳でもないのだが、自分の考えていることをもっとフランクに文章にする。それは日記の様なものかもしれないし、雑記としか呼べないようなものかもしれないけれど、とにかくただただ「自分の文章」を書く場として利用してもいいんじゃないかな、と自分に語りかけてみた。いや、別に誰もこういうことしちゃいけないなんて言っていないし、別に特段「こんな文章を書いてほしい」等という期待はされていないけれど、どうも外に公開されているブログの様なものだと、人様から良く思われようとして緊張してきてしまう。それをどう排除しながら気楽にやっていこうかな、と今考えている。
とりあえず、上記の意図を持ってここに書くエントリを「模索」というカテゴリにしようと思う。わざわざタイトルを付けるような文章に結果としてなればタイトルをつけるし、そうでなければ日付をタイトルにするくらいでいいか。

有効ではない反論

Life is beautiful: 安倍総理への提案:「人生のやり直し」に寛容な社会作りをしませんか?というエントリが最近アップされたが、はてブを見てみると以下のようなコメントが付いていたので、ちょっと紹介したい。

はてなブックマーク – Life is beautiful: 安倍総理への提案:「人生のやり直し」に寛容な社会作りをしませんか?

同意だけど、安倍さんに振ってもしょうがない

なぜ安倍さん? 彼が必死になってこの問題に取り組んだところで彼では少しも改善できない。総理が解決できるレベルの話じゃない。

見方はいい。ただ、事例がいかにもでどうも。あと、安倍はターゲットじゃないと思う。

それを阿呆ボンに聞いても無駄だろ。

これらを見ていて、また小学校時代の思い出が記憶に甦ってきた。僕とクラスメイトが何かしらの値を当てっこしている、というシーンである。

A 「僕らの住んでいる町は何丁目まであるか知ってる?」
僕 「う〜ん、八丁目までだと思う」
B 「俺は八丁目までじゃないと思う」
A 「正解は十丁目まででした〜」
B 「いえーい、俺の勝ち〜」
僕 「…」

具体的な内容はきちんと覚えていないのだが、言いたいことを伝えるのにはこれで十分だと思う。
このときの僕はこの構図がおかしいということを周りの皆に説明する力を持ち合わせていなかったのだが、今なら誰にでも自明であろう。僕が=8を答えにしているのに対し、Bは<>8を答えにしている。これはあまりにもBに有利な勝負である。もしこの勝負を有効にさせようと思ったら、Bも9とか10とか具体的な数字を述べなければならないか、もしくはオッズでも導入するしかないのである。このBの答えが僕に対する反論だとしたら、とても有効とは言えない。
この構図は実は社会に出てからもそこそこ見かけるということを最近気付いたのだが、上記で引用したはてブコメントはまさにこのパターンだと言っていいだろう。提案先が安倍総理で間違っているとするならば一体誰が正しいのか、それくらいは短い文章しか書けないはてブにでも書けたであろう。要するに<>だけ述べて、=で述べた相手に勝った気になってしまっているのである。しかしこれは有効な反論とは言えない。そうではないだろうか。
まあこのブログの著者が安倍総理に提案と書いているのは、ただ権力中枢の象徴として安倍総理の名前を使っているだけであり、誰に提案を持っていけば良いのかを真剣に検討した上で書いたわけではないと思うので、そもそもそこに突っ込みを入れること自体がずれた行為であるように思える。

自分の性質が長所なのか短所なのかを定義するのは周りの環境

長所と短所は、一枚の紙の裏と表のようなもので、切り離そうとして簡単に切り離せるものではない。その意味では、無理に自分の短所を直そうとしたり、他人の短所を直させようとしたりせずに、お互いの長所/短所を理解し合った上でどうやったら心地よく一緒に働けるかを考えるというのは、とても合理的な方法なのかも知れない。

Life is beautiful: 長所と短所は切り離すことのできないものかも知れない(と開き直ってみるテスト)

コメント欄にもあったが、自分が持っているある性質が長所なのか、それとも短所なのかは結局周りの環境が定義するものであり、自分が属する環境が変われば、自分は変わらないけれど、長所とか短所は変わってしまうのである。だから自分のある性質(例えば積極的に意見が言える、とか)が自分の長所だ、という汎用的な言い方は中々難しいものがあると思う。
例えば「声が(物理的に)大きい」というのは長所か短所か。これはその人が応援団にでも属していれば長所だろうし、逆にバーテンダーとか雰囲気が非常に重要な職業に就いていたら短所かも知れない(もし声の大きいバーテンの方がいらしたらごめんなさい。例えです)。だから就職の面接などで「自分の長所短所は何ですか」という質問をされたら、「私は○○○という性質を持っていますが、これは御社に勤めれば大きな長所となると思います。また私の△△△という性質は御社で働く際に短所になりかねないので、今から頑張って改善していきたいと思っています」とか答えるのが本当は正しいと思う。まあ聞いている方もそこまで考えていないかもしれないけれど。
という事で、自分の性質を見極め、なるべくその性質が長所となるような職業に就くことは、ひとう仕事を選ぶ上で大事なことではなかろうか。

最近の自分のブログエントリの書き方の傾向

ブログを書き始めた当初は、かなりきちんと文章構成を考えたり、誤字脱字に気をつけたりしながらブログを書いていたのだが、最近は勢いに任せて文章を殴りつけるような書き方が気に入っている(この文章もまさにそういう感じで書いている)。前は頭でアイデアを整理した後で、ブログに清書しているような状態だったけれど、今はブログを書きながらアイデアが整理されているような状態。これはこれで気に入っているし、まだ分からないけれど、後から読んだときの面白さが違うのではないかと思う。
無論練った文章にはならないし、表現が幼稚だったり、構成が滅茶苦茶だったりと弊害も出てきてはいるのだが(typoも当然)、まあ楽しんで書くのが一番だし、そのときそのときにやりたいやりかたでエントリを増やしていこうと思う。

新時代に相応しいエンジニア

以前祖父から貰った手紙に「新時代に相応しい生き方をしなさい」と書いてあった。まあそのとき僕は結構ふらふらしていたし、所謂普通に大学を出て就職をしてというパスを歩いていなかったので、その僕に対する祖父なりの配慮の言葉だったように思う。
でも今になってその言葉を思い返す。今僕はソフトウェアのエンジニアをやっているが、来る新時代に相応しいエンジニアになっているか、またはなれそうか。そういうことを常に考えていかなければならない。もう新しい時代はすぐそこに来ているから。

米国のイノベーション気質

今日のウォール・ストリート・ジャーナルの注目記事は、そのGoogleですら、ベンチャー企業に人を奪われている、というもの。上場前の2003年に雇った人たちのストックオプションの現金化が可能になったため、Googleに残るインセンティブが薄れたエンジニアたちが、もう一花咲かそうと次々にベンチャー企業を興しているという。

http://satoshi.blogs.com/life/2007/06/post-6.html

目まぐるしい技術の進化とそれに伴う経済の進化及び変容。米国が産み出すイノベーションの源泉を垣間見るかの様。ただただ凄い。

これはもはや国民性という気質の問題であり、日本で米国の様にイノベーションを生み出す為の文化を創ろうと思ったらかなり長い年月がかかる。徐々にそちらの方向には向かっているとは思うのだが。

だから若いエンジニアは、絶対に外に飛び出せる技術力と英語力を持つべきだろうとは思っている。