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山田克哉「光と電気のからくり」

光と電気のからくり―物を熱するとなぜ光るのか? (ブルーバックス)

光と電気のからくり―物を熱するとなぜ光るのか? (ブルーバックス)

「光って何?なぜ光るの?」
「電磁波ってよく耳にするけれどどんなもの?」
「電気とか電流って実際にはどういうもの?」
「磁石って実際には何?」
「マックスウェルの方程式って聞いた事あるけど何?」

といったような疑問に数式無しで答えてくれ、かつ原子のレベルから徐々に解説してくれる素晴らしい本。個人的には名著じゃないかと思った。ハードの専門家さんが読む様なレベルの本ではないとは思うけれど、例えばデジタルカメラ等の組み込みソフトを作っているソフトウェアエンジニアさんななんかが読むと、自分の仕事をより根本的なレベルから捉えることができるんじゃないか思う。もちろん上記のような疑問をお持ちの学生さんには是非お勧め。あまりまじめに取り組んでいなかったせいかもしれないが、学生の頃に受けた物理や化学の授業の何倍もの勉強になった。いま赤外線カメラに少し関わる仕事をしているが、その基礎となる知識を得られたと思う。
上述したように本書には数式が載っていないのだが、次は是非数式ありでマックスウェルの方程式を理解したいと思った。本書で僕が一番面白いと思ったのが、マックスウェルが電磁波の存在を予言し、さらには光と電磁波の関係に気が付く部分だったので、次は是非数式を拝見したい。まあすんなりと理解できるとは思えないけれど。
この本を読み、今まで自分が電磁波という単語を誤った使い方をしていたのに気付いてちょっと恥ずかしい気持ちになった。まあ世の中に広まっている情報というのは、世の中に広まるに十分なほどデフォルメされているから通常は「厳密に言えば誤用」という情報ばかりな訳で、何も疑問を持たず、自ら調べてみる事なしにその情報を使ってしまえばまず間違いなく誤用してしまうものである。気を付けたい。
話題は変わるが、本書で紹介されていたスピンはめぐる―成熟期の量子力学 新版もかなり興味深い書籍のようだが、これは門外漢の僕が手を出すような書籍ではなさそうだ。ほしいものリストへの追加だけはしておこうかな。

マイルス・デイビス、クインシー・トループ「マイルス・デイビス自叙伝」

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)

  • 作者: マイルスデイビス,クインシートループ,Miles Davis,Quincy Troup,中山康樹
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1999/12/01
  • メディア: 文庫
  • 購入: 4人 クリック: 35回
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マイルス・デイビス自叙伝〈2〉 (宝島社文庫)

マイルス・デイビス自叙伝〈2〉 (宝島社文庫)

  • 作者: マイルスデイビス,クインシートループ,Miles Davis,Quincy Troup,中山康樹
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1999/12
  • メディア: 文庫
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当たり前の話だけど、音楽は聴くものであって読むものではないから、例えばJAZZとかクラシックが分かるようになるといったタイトルを冠した本にはそれとなく嫌悪感を抱いていた。本書もおそらくマイルス・デイビスが作者でなかったら、もちろん実際の著者はクインシー・トループなのだろうけれど、この本を購入することはなかったと思う。
結論から言うと買って良かった。すごく面白く読めた。僕はJAZZに関しては最近聴き始めたばかりの素人だし、マイルスの作品はKind of Blueしか持っていなかったので、おそらくこの本を十二分に楽しめる程の知識を持ち合わせてはいないはずだが、それでも面白いと感じる事が出来た。個人的にはJAZZの歴史の流れの勉強にもなったという意味で、マイルスがコカインに犯されていく前の、ディズやバードとのニューヨーク時代の話が一番興味深かった。おそらく、この頃のニューヨークのJAZZをリアルタイムに、肌で感じるということがJAZZファンの共通のひとつの大きな夢なんだろう。マイルスの作品はこの本を読んでから5作品ほど聴いてみたが、いまのところこの時代に録音されたBirth of the Coolが一番好きだ。もちろん、天才マイルスの後期の作品に僕が着いていけてないだけだという事実は認めなければならないが。

G.パスカル ザカリー「闘うプログラマー」

闘うプログラマー 上巻

闘うプログラマー 上巻

闘うプログラマー 下巻

闘うプログラマー 下巻

文句無しにスリリングだった。たまたま寄ったBOOK OFFで下巻だけ売っていたのを見かけて購入したのだが、あまりにも面白かったのですぐにAmazonで上巻も注文。とにかく一気に読めてしまった。
こういったドキュメンタリーものは、まあかなりの程度に大袈裟に書かれているだろうとは思いつつも、ソフトウェアの新製品の開発、いや新製品の開発現場というのはまさに「闘い」の場であることは、多少なりとも知っているつもりではあるので、この本に書かれている内容、つまりWindows NTの開発現場での「闘い」というのはある程度リアルに消化できた。
本書の中でもそうであるが、大抵こういった開発現場での闘いというのは、ライバル企業の闘いがどうのというようりも、企業内の部門同士の闘いであったり、個人同士の闘いであったり、もしくは自分の中での闘いであったりする。営業部門と開発部門とか、開発者とテスト担当者とか、開発監督者と開発者とかそういった組み合わせで日々闘いは起こる。正のエネルギー同士のぶつかり合いだけであれば良いのだろうけれど、現実には負のエネルギー同士のぶつかり合いなんてのもしょっちゅう目にする。開発手法の教科書だとか、新製品開発プロセスの方法論だとかそういうものって世の中には結構あるんだろうけれど、まあ実際に現場に出てみると、体系的に学べるような知識を大きく超えた部分で、何か得体の知れない大きな渦の様なものを相手にしなければならない。だからといって知識や経験が無いものが相手にされるような舞台でもない。そんな中でWindows NTという当時の新製品を「出荷」するところまでこぎ着けた彼らは、今更ながら賞賛の拍手を送りたい。

ポール・オースター「トゥルー・ストーリーズ」

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

柴田元幸さんが積極的に翻訳されているポール・オースター氏の本を読んでみたいと購入。実は中身もよく見ずに適当に買ってしまったので、この本がエッセイ集であることに読み始めるまで気が付かなかった。ただし訳者あとがきにもあるように、このエッセイ集はタイトルの通り著者の身の回りに起こった「本当にあった話」をまとめたようなつくりになっており、そのほとんどすべてが「事実は小説よりも奇なり」という言葉がまさにぴったりと当てはまる様な話を中心に展開されている。
ただ僕が思うに、著者の身の回りで起きたことが、我々の身の回りのそれよりも非常に偶然性に富んだものであることは認めるが、それにもまして重要なのは、著者が彼の周りで起きる様々な出来事に非常に強い関心をもっており、またそれを強く愛していることではないかと思う。極端な話、昔起きた事を片っ端から忘れてしまうようであれば、奇妙な偶然を感じる機会は非常に少なくなってしまう。自分の周囲の人々に注意を払わなかったり、彼ら彼女らの話を聞かなかったりすれば、それも「あなたを心底驚かすような偶然のいたずら」を逃す行為となってしまうだろう。だからもし著者のように色々な「本当にあった話」を手にしたいとするならば、自分とその周りのすべての事に関心を持ち、興味を抱き、そしてそれらの事を頭の中に留めておくよう心掛けるべきだろう。
ちなみにこの本は日本独自編集らしい。

ベンジャミン・フランクリン「フランクリン自伝」

フランクリン自伝 (岩波文庫)

フランクリン自伝 (岩波文庫)

こんな読後の感想は何か妙に思うが、この本を子供の頃に読んでおけば良かったという感想と、いや読まずにおいて良かったという両方の感想を持った。つまり凄く強い影響力を持つ本のように僕には感じられ、二十代最後の年を謳歌している自分にもそれなりに影響を与えてしまうような本だから、感受性豊かな頃に読んでいたら「自分もこんな風に生きなければ駄目だ」とか「こんな風に生きていくなんてまっぴらごめんだ」とか、とにかくそういった強い思い込みを持ってしまったに違いない。その思い込みが良い方向に出てくれれば万々歳だけれど、なんか悪い方向に行っちゃったらとことん行っちゃいそうな、そういうある種のストイックさ、清貧さ、一直線さがこの本には感じられる。
僕は元来ストイックな生き方や勤勉さというのが好きなタイプであるので、フランクリンの生き方には非常に好感を持ったものの、その一方でいわゆる現代的な感覚、という曖昧だが自分の心の中にあるそんな部分と、彼の生き方の間にあるギャップには違和感もおぼえた。あーでも彼の時代に生きた他の人々は本書から察するに、今僕が書いた「現代的感覚」というのは持ち合わせていたように思うから、これを現代的感覚とか呼んでしまうのは多少おかしいか。まあでも生きていくこと、とか生活していくことというものに割り当てるエネルギーは、どう考えても現代人方が少ないであろうと思うから、やっぱり現代的感覚なのかもしれない。
なんかベンジャミンが議論の方法を模索している辺りなんかは思わず「お前は俺か」くらいに思ったりもしたし、その他引用したいなぁと思わせる素晴らしい箇所がたくさんあったのだけれど、基本的には名著だと思うので、気になった方には是非自分で購入して読んでもらいたし。軍事の話が出てくるあたりからはあまり面白くないと感じた。あとあれだ、酒に溺れるのだけはやめよう、と思った(笑)

柴田元幸「アメリカ文学のレッスン」

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

ヘミングウェイをいくつか読んだ事がある程度、つまりアメリカ文学なんてほとんどよく知らない僕だが(何文学もよく知らないけれど)、本書を楽しむことが出来たのはおそらく筆者の筆力によるものだろう。それに対象が何であれ、ある分野に非常に精通した人、ある分野を非常に愛している人、言葉は悪いけれどある分野に対してマニアックな人から、その分野に関する話を聞くというのは面白いことである。だからアメリカ文学の専門家からアメリカ文学の話が聞ければ、それは大抵面白いことになる。本書はまさにそういう感じ。
レッスンとタイトルにあるし、著者は東京大学の教授だから、授業内容がそのまま本になったような中身を想像されるかもしれないが、そういうわけではない。本書の中では、ある言葉、例えば「食べる」とか「勤労」とか「ラジオ」とか、から連想されるアメリカ文学の作品や作家が紹介され、著者がそれらに対して考察を加えるという内容になっている。著者のアメリカ文学に対する洞察の深さは、僕になんか判断出来る事ではないだろうけれど、おそらく相当なもので、作品や作家に対する知識はもちろんのこと、作品や作家の背景となったアメリカの歴史的事情や経済状態なんかも踏まえて、非常に大きな枠組みで文学を捉えており、おそらくアメリカ文学というよりは「アメリカ」を専門としているとも言えるのではないだろうか。
ちなみにこの本の中で紹介されている作品で、何故か一番読んでみたいと思ったのがベンジャミン・フランクリンのフランクリン自伝 (岩波文庫)である。次の機会にでも購入してみよう。

村上春樹「雨天炎天」

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)

そう言えばこちらではまぞうを使用しないアフィリエイトについて言及されているのを見かけてから色々と試してみたのだが、Amazonの張り付けコードを使ってしまうと、どうにも見た目がすっきりしなかったので、僕はやはりはまぞうを利用することにする。
さて、本書は一応村上春樹氏がギリシャとトルコに滞在したときの記録なのだが、副題に「辺境紀行」とあるように、我々が一般的に頭の中に思い浮かべるギリシャやトルコとは大分様相の違う、まさに辺境に旅をしている。正直に言うと、トルコで頭に浮かぶイメージなんてひとつもないくらいトルコについては知らないのだが、これが普通の旅行とは違うであろうということは容易に想像がつく。
ギリシャではアトスという半島に旅されているが、正直な感想を述べるのであれば「アトスには生涯行く事はなさそうだな」というのが正直なところ。夫婦というユニットで旅行している以上、奥さんが行きたがるところでないと旅行はできないが、ここは確実にその部類に入らない。いくつかある修道院で日々宗教的な修行に取り組んでおられる僧の方々のストイックさを想像すると、なんとなく子供の頃に読んだ聖闘士星矢に出てくる聖闘士達の修行を思い出してしまう。車田正美さんなんかも、取材でこういった場所を訪れたのではなかろうか。
トルコ滞在について書かれた部分では、トルコ人の方々のかなりの親切さが非常に印象に残った。日本を訪れた外国人の方からは日本人のホスピタリティの素晴らしさ、といったような話を聞く事も多いのだが、トルコ人の方々のそれはちょっと程度というよりは種類が違うのではなかろうか、そんな印象。そう言えば昔テレビで岩手の方々の親切具合がすごいといったような内容を観た事があったけれど、それよりもっと凄そうである。
あと今まで会った事のあるトルコ人って皆さんくっきりとした凛々しい顔つきだったのが印象的だったのだが、この本の中の写真を眺めていると、どうもトルコの人というのはそういう顔らしい。欧州と中東に挟まれているという独特のお国柄が、顔つきにも表れているような気がしてくるのは不思議なものだ。

三浦つとむ「弁証法はどういう科学か」

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

弁証法という言葉の意味するところが知りたくて購入。Wikipediaで著者の項目を見てみると、本書は著者のヒット作であったとのことだが、僕としても興味深く読む事が出来た。
当初の目的であった弁証法という言葉の意味するところを人に説明出来るようになったか、と問われれば出来ないのだが、それでも思考方法の一環として、思考の枠組みとして弁証法というものが利用出来そうであるという実感は沸いた。特に形而上学的な考え方との違いや、量質転化の話、否定の否定の話などは僕のような素人にも分かり易く、今後色々な場面で役立つ物の見方を得る事ができたのではないかと思う。
ちなみに僕はこういった自分の専門外の書籍の場合だと、普通に頭からじっくりと読んでいく様な読書は最近していない。時間の節約という意味合いもあるし、純粋にじっくり読む集中力が続かない、という理由もある。どうしているかというと、まず冒頭はじっくりと読み、途中からパラパラとかなりのスピードで一番最後までページをめくり、再度冒頭を読んだり、パラパラしていた中で気になった単語の書いてあったページを読んでみたり、またパラパラめくったり、というのをウダウダ繰り返しながら、「終わった」と自分が思えるまで本をいじってるという様なことをしている。

高野登「リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間」

リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間

リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間

先日同ホテルに滞在してみたことをきっかけに購入。リッツ・カールトンが大事にする精神を様々なサービスのエピソードと共に説明している。この手の本(と一括りにしてしまっては著者に悪いかもしれないが)が大抵そうであるように、実践的なノウハウ本ではなく、何と言うか抽象化された「心、精神、信条」なんかを語る本であるため、どんな仕事に就いている人間でも参考になる反面、書かれていることは極めて当たり前の事の固まりである。同ホテルが何らかのノウハウによって成り立っていないのと同様、「どのような精神で仕事に望めばいいか」というところにもコンピテンシーがある訳ではなく、このような理想を追求する事が出来る従業員を雇い、頑張ってもらい、成長させるといったサイクルを回す事ができるシステムを作った、というところに競争力があるのであろう。様々なエピソードには思わず拍手を送りたくなるようなものも多いが、これらの例の多くにはそれなりにコストがかかっている筈であり、それらのコストは普通に宿泊したゲストの支払った宿泊代から得た利益で賄われているのかと思うと、ちょっと「ずるい」とか思う人が出てしまうのではないかというケチ臭いことを考えてしまった。同じ事が一日二千ドルの決裁権の話にも言えると思うのだが、こういった「あるお客様の為にした特別なサービス」なんかを大々的に宣伝してしまうと、「私はそんな風にサービスを受けなかった」というクレームが発生するのではないかとハラハラしてしまうのだが大丈夫なのだろうか。要は「私にも同じだけお金をかけて下さい」という主張をするゲストが出てきてしまうのではないかと。同ホテルのリピーターは明らかに富裕層だろうから、そういうクレームは発生しないのかもしれない。逆にこの辺りに興味が出ちゃったりするのだけど、まあこれはさすがに内部の限られた人間しか手に入らない情報だろうな。

齋藤孝、梅田望夫「私塾のすすめ」

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

なんと言うか、この人達はつくづく大袈裟な人間なんだと思う。何が大袈裟なのかと言うと、物事に対する感じ方が大袈裟なのだ。読んだ本に書いてあった事や誰かが言った事、誰かの働き方や生き方や成した事にこれだけ感銘や衝撃を受けたり、怒りを感じたり出来るのはおそらく彼らが普通の人よりも物事に対する感じ方が大袈裟だからに違いない。そして僕はそういう人間が非常に好きである。例えば学生時代に何かをこよなく愛する人間が何人か回りにいたが、概して対象に対する感じ方が普通の人よりも大袈裟であった。思うにこの大袈裟に感じる力というのは、日々自分を奮い立たせる為のエネルギーとして非常に有効であるに違いない。齋藤さんの著書のタイトルっぽく「大袈裟力」とでも名付けておこうか。ちなみに事実をねじ曲げて大袈裟に回りに伝えるというのは「誇張」であってこの話とはまったく違う。あくまで大袈裟に「感じる」力が大事という話。
さて内容についてである。通勤時間も使って二度三度と全体に目を通してみたが、なんとなく梅田夫妻の生活の有り様が一番印象に残っている。自分が毎日ひたすら家に居るという生活は今のところ想像もできないくらいであるが、何となくこのスタイルになっても僕ら夫婦は上手い事やっていけるのではないかという感覚を持つことができた。また、ロールモデルというか憧れの対象とも言うべき人間を三人程度挙げてみて、その三人から「自分が何を求めているのか」という欲求を探し当てるというような話は試してみたいと思った。あと梅田さんの就職活動うんぬんの話はその時期の自分を思い出して思わず懐かしくなってしまったが、僕もどうにも入社式とかそういう輪に自分が属している姿が想像出来ずにもがいていた。梅田さんと違い、その当時の僕は社会からの逃避を選んでしまった訳だけれど、今でも続いているそういったものへの違和感というものの中に、上述した「自分が何を求めているのか」という問いへの答があるのかもしれない。それにしても、研修を受けることまで駄目とは極端ですね。
あとがきにあった彼らの戦いについては理解しているつもりではあるが、これを読んで若い世代が呼応してしまうのはちと怖い気がする。つまり、若者が日本に存在する閉塞感を言い訳にしだしたら嫌だな、と。自分がやれない理由をそこに当て嵌めてはいけないのだ。ただこういう事を齋藤さんや梅田さんなど上の世代が口にすると、とたんに閉塞感を生み出す側に加担してしまうことになるので中々難しい。多分、凄い我慢している部分があると思う。だから本書のような本に呼応して、若い世代から「社会がどうとか色々あるだろうけど、俺たちはそれを言い訳にしないで動こうぜ!」とかそういった声が出てくると良いのではないかと思う。少なくとも僕はそういう声を発したい。