直感と論理的思考

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20060222/1140561565

で紹介した「簡単に、単純に考える」の中で、羽生義治氏が興味深いことを書いていたのでここで紹介したい。

将棋には「読む」プロセスと「大局観」で判断する局面がある。「読む」作業は、余計なことを考えずに、ただ指し手を次から次へと頭の中で進めていき、その結果どういう場面になるかを想定することである。一方、「大局観」は、パッとその局面を見て、今の状況はどうで、どうするべきかを直感で判断することである。当然、若いときは体力があり、集中力も高いからたくさん読める。
(中略)
一方、年を重ねると、ただ読むのではなく、思考の過程をできるだけ省略していく方法が身につく。修羅場に強くなるというか、経験をうまく活かしていくのである。晩年の大山康晴先生の将棋は、まさにその典型であった。

たとえば、一つの局面で、この局面は「この手しかない」と閃くときがある。一〇〇%確信を持って最善手とわかるのだ。論理的な思考を直感へと昇華させることが重要なのである。勝負の場面では、時間的な猶予もあまりない。論理的な思考では、時間もかかり相手に後塵を拝してしまうかもしれない。初手からの流れのなかで、これしかないという判断をしている。つまり、思考の過程を細かく砕かないで、どんどんやっているのだ。

また、

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20060228/1141075355

で紹介した「文体とパスの精度」の中で、中田英寿氏が、村上龍氏との会話の中で以下のように言っている。

中田 おもしろいよね。試合後に「あのときは何を考えてパスしたんですか?」って訊かれても、考えるというより、それは反応だろうってよく思うんだけど。(笑)結局、練習の積み重ねしかなくて、その中から本能的にチョイスしているだけ。あそこにスペースがあるからとか、たぶんあそこのディフェンダーがきて、四秒後に追いつくかな、みたいなことをいちいち考えているわけではない。それは瞬間的な判断としか言いようがないし、そのための反復練習なんですよ。

「直感型の人間である」とか「論理的に考える人間である」といったような表現は、正反対のものであるかのように捉えているのが一般の感覚だろう。だが一流の棋士であり、一流のスポーツ選手である両氏の言葉より、「直感」と「論理的思考」という言葉に対する認識を改める必要性を感じた。
概ね我々が従事している仕事は、将棋やサッカーよりも判断に使える時間が長い。だが全ての物事を論理的に詰めている時間は当然なく、最後には直感、悪く表現すれば「なんとなく」で物事を決断するケースはやはりある。論理的に詰めた決断でなかったり、ある方法論にのっとった決断でなかったりした場合は、説明責任を果たしづらいし、何より、結果はどうあれ、自分の中で悔いの残る決断だったりする。その為なるべく「なんとなく」の決断を減らそうと、論理的な説明付けのために時間を費やしたり、今までの実例や実績、誰かの方法論にのっとった決断に逃げたりする。これらは決して誤った行動ではないが、自分の思考が、学んだ方法論が、最後に自分の直感として昇華されるなら、堂々と直感に従って決断を下して良いときがあるのではないだろうか。少なくとも、そういう視点を持って仕事を進めていっても良いのではなかろうか。
僕は自分にとって、「論理的に思考すること」、「方法論を学ぶこと」は大事だと考えている。それは世間一般で言われている「直感的な行動」をしない為だと考えていたが、最終的により良い大局観を持って物事を判断する為だと考えるべきなのかもしれない。新しい視点を与えてくれた両氏には感謝したい。