月別アーカイブ: 2007年6月

米国のイノベーション気質

今日のウォール・ストリート・ジャーナルの注目記事は、そのGoogleですら、ベンチャー企業に人を奪われている、というもの。上場前の2003年に雇った人たちのストックオプションの現金化が可能になったため、Googleに残るインセンティブが薄れたエンジニアたちが、もう一花咲かそうと次々にベンチャー企業を興しているという。

http://satoshi.blogs.com/life/2007/06/post-6.html

目まぐるしい技術の進化とそれに伴う経済の進化及び変容。米国が産み出すイノベーションの源泉を垣間見るかの様。ただただ凄い。

これはもはや国民性という気質の問題であり、日本で米国の様にイノベーションを生み出す為の文化を創ろうと思ったらかなり長い年月がかかる。徐々にそちらの方向には向かっているとは思うのだが。

だから若いエンジニアは、絶対に外に飛び出せる技術力と英語力を持つべきだろうとは思っている。

吐露

何をやっているんだろう。

元々何か凄いものを開発したいと思って開発者になった。別にそれはソフトウェアじゃなく、ハードウェアでも良かったんだけど、趣味趣向が自然と僕にプログラミングを選択させた。何か凄いものってなんだろうっていう定義は出来ないけれど、例えばGoogleの検索とかiPodとかトヨタのプリウスだとか、とにかくそういう世界的に大きなインパクトを与えた製品やサービスに心を惹かれたし、そういった製品やサービスの開発物語(プロジェクトXみたいなイメージ)を読んだり聞いたりすると心が震えたものだ。「自分もいつかそんな製品やサービスを世に送り出したい」、そう思った。僕の仕事の目標はシンプルにただそれだけだと思う。すんげぇもんつくる。

でも最近の僕は何をやっているんだろう。1年前くらいにチームリーダーになった。そこから工数の調整だとか上への報告だとかそういう仕事が増えた。会社がそう決めている訳ではないけれど、チームリーダーはコードなんか書かない存在になるべきだという考え方はかなり会社に浸透している様に思う。そんな存在にはなりたくない。しかし正直言えば、一旦なってしまったこのチームリーダーという存在に恋々としている自分が存在する。チームリーダーの給与幅は一般社員より広いのだ。僕にも家族はいる。そんなことを言い訳にしながらどっちつかずの毎日を過ごしている気がする。

この間会社の評価制度が変わった。自分の成果をプレゼンテーションで評価者に発表し、採点するというもの。プレゼンする相手、プレゼンをされる相手は普段一緒に仕事をしていない人達だった。15分のプレゼンテーションでは何も評価できなかった。一部の人はとてもプレゼンテーションを上手くこなしていた。言い訳がましいけれど、僕はプレゼンテーションなるものは得意だと思う。人前も得意。でもだ、終わると思った。ここで素晴らしいプレゼンテーションをして、自分の評価を上げる真似をしてしまったら開発者として終わると思った。その方法論から抜け出せなくなると思った。高評価に恋々としてしまうだろうと思った。開発者として技能を向上させることを馬鹿馬鹿しく思うようになるだろうと思った。だから僕は単調なプレゼンテーションをした。立ってプレゼンテーションをした方が印象が強いだろうというプレゼンテクニックの話が終わったあとに出たけど、僕は来年以降も座りながら単調なプレゼンテーションを行うだろう。無論、自分が凄いものを作れたときにはその凄さを必死でアピールしたいと思っている。開発者ってそういうもんだと思う(実際は、チームリーダーとしてチームメンバーをどの様にマネジメントしたのかを中心にプレゼンテーションするのだが…)。

今僕は不安であり、そして頭に来ている。頭に来ている?何に対して。それは間違いなく自分に対して。会社の評価制度も周りの社員もどうのこうの言ってはいるものの、僕にもっと素晴らしい技術があれば、アイデアがあれば、能力があれば、会社がどんなことを言ってこようとも、どんなことをこちらにさせようとも、世間が僕を評価してくれるはずだから。だから自分の能力の無さに頭が来る。だったら世渡り上手になって能力の無さを隠しながら生きようと思ってしまう弱い自分にも頭が来る。不安なのも結局自分の能力が自分が思う十分なレベルに達していないからだ。全ては自分に起因する。

凄いものじゃなくてもいい。とにかく何かを作ろう。何かを生み出そう。結果それがクソでも構わない。次に繋がればそれでいい。超簡単なゲームでも構わない。意味の無いものでも構わない。会社で作れないなら自分で作るしかない。最終的にも凄いものは作れないかもしれない。でもそれでも構わない。世渡り上手なカスエンジニアになるよりましだ。もし自分には凄いものは産み出せないという結論に辿り着くようだったら、そのときは潔くエンジニアをやめよう。僕にはお金を稼ぐための技能がプログラミングの他にもある。

まとめ

開発者としての自分の能力とのみきちんと向き合う。能力が無いようだったら潔く止める。世渡り上手開発者にはならない。以上。

あー、よく分からないエントリになったけどすっきりした。会社の人間も一部読んでるかもしれないけど、まあいっか。

はてな離れその1

とりあえず、はてなRSSからGoogle Readerに転向した。特に技術面でどうこうという理由ではなく、はてなブックマークが付かないRSSならなんでも良かった感が強いのだが、それでもGoogle Readerの方がさくさく動くのでその面でも良い選択だったかもしれない。

次は今まで過去に溜めてきたはてブをどうするかが問題だ。

変化への対応を学ぶとき、見本とすべきは女性

フラガールスタンダード・エディション [DVD]

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変化への対応を学ぶなら、最高の先生は身近にいる女性だ。
昨日映画「フラガール」を観た。もちろんスクリーンの世界なので大きな誇張と共に描かれているが、基本的には「時代の変化についていけない(ついていかない)男性達(炭鉱夫)」と「時代の変化に自分も変わろうとする女性達(炭鉱夫の妻や娘)」という対比がテーマとなっている映画だ。繰り返す様に誇張はされているけれど、日常生活でも十分女性の変化への強さを感じることは出来る。似たような映画や物語はたくさんあるし、おそらく普遍的な傾向なのかもしれない。

さて、映画の舞台となっている昭和四十年代とは違い、現在はインターネットが世界を小さくし、そして変化を早くしている二十一世紀である。こんな時代には日々自分の中に変革を起こしていかなければならない。例えば技術者であれば、自分の技術に自信を持ったとたんに、今度は新しい技術の初心者となる。そういう行動を繰り返していかなければならない。

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ネットイナゴ問題雑感

ネットイナゴについて何か書こうと思っていたら、各所で盛り上がりを見せているようで完全に出遅れてしまった。まあ別に他人より先に書いたからといってどうということはないのだけれども。

一方、はてなブックマークでの厳しい一言で人が傷ついたりしているのを見かけます。誰かがちょっと間違ったということを指摘するのに、バカとかアホとか、そんなことを書く必要は本当にあるんだろうか、自分の思う正しい回答を丁寧に示すだけでよいのではないか、と思います。

はてなブックマークのコミュニティについて – naoyaのはてなダイアリー

こういう「誰かが傷ついた」的なミクロな話に向かうのは意外だったというか、ちょっと方向性が違うのではないかと思う。結局のところWebが皆にとってどの様な場所になるべきなのか、どの様な場所になると嬉しいのか、というマクロな話が今問題になっているんだと認識している。その意味では池田信夫さんの記事で述べられている視点は共感できる。今こういう議論をすべきでないかと思う。例え話としてはちょっと暗いのだけれど、年間交通事故で1万人近くの人が日本だけで亡くなっている。おそろしい数だと思う。けれど自動車はマクロで見れば我々を幸せにしたのではないかと思っている。例えばそういう話。上手く書けないけれど、どんな物やサービスもミクロで見てしまえば誰かを傷つけたりすることはある。誤解を恐れずに言えばそれはしょうがないことだ。でも今のはてブは全体の質としてどうなの、という話をするべき。人を小馬鹿にすることが中心のしょうもないネット空間になってしまったらどないすんねんと、そういう話に持っていかなければならないはずだ。
前にも書いたと思っているのだが、結局はてブでコメントできてしまうことが全ての元凶なんじゃないかと僕は考えている。あのコメントには一種の独特な暗さを感じるのは僕だけではないのではなかろうか。あのコメントで吹いたことも何度もあるし、納得できないエントリのコメントに共感したこともある。ただじゃあ何か本質的に役に立った事があったか、と考えると、一度か二度そういうことがあった程度だと思う。ただし自分のはてブに付けた自分のコメントは後からの検索時に役に立つ。もともとそれを想定した機能だろう。だからはてブのコメントは自分のだけ見れる様にしてくれて僕は構わない。人のエントリや記事に反応したかったら、トラックバックやコメントで正々堂々と反応すれば良いのではと思う。ここまで書いてきて思ったが、はてブのコメントに独特の暗さを僕が感じるのはそこに責任を感じないからかもしれない。人がいるという気がしない。その意味ではid:naoyaとは正反対の感じ方をしているのかも。
まあ1ユーザとしては、あまりにもしょうもないサービスになってしまったと判断したら、より良いサービスに移行するだけである。もちろん使いなれたものから移行するコストというのはそれなりなので、はてなには頑張ってもらいたい。もちろん協力できることがあればしたいと考えている。

メリットとデメリットを比較するな

別に僕は生き方の達人という訳ではないが、それでも「あぁ、この人は生き方が下手くそだな」と人に対して感じることがある。僕が言う生き方が下手くそというのは、結局のところ幸せ上手かそうでないかということなので、僕がそう感じる人と言うのは大抵幸せ下手な人である。
僕が人に対してそう感じるときのパターンというのはいくつかあるのだけれど、その内のひとつとしてメリットとデメリットを比較してしまう人、というのがある。

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村上春樹、柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

キャッチャー・イン・ザ・ライを読んだので、ようやく本書を読むことが出来た。あまり本は本棚に眠らせておく方ではないので、それなりに本書のことが気がかりだった。読み終えてすっきりしている。
前作の翻訳夜話とは違い、本書はあくまでサリンジャー、もっと具体的に言えばキャッチャーについて村上、柴田、文藝春秋編集部が語り合うという内容である。巻末にはキャッチャーには掲載することが出来なかった訳者あとがきが掲載されているので、村上訳のキャッチャーを読んだ方はまずこちらも購入していることだろう。*1
本書の感想を書くとキャッチャーの感想になってしまいそうなので気をつける。

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鍵本聡「計算力を強くするpart2」

計算力を強くするpart2―思考の瞬発力を磨くために (ブルーバックス)

計算力を強くするpart2―思考の瞬発力を磨くために (ブルーバックス)

いわゆる暗算のテクニック本。本書を読むと、例えば二桁の掛け算とか、二桁以上の足し算などを有効に暗算する方法が得られる。それらの方法は言われてみれば当たり前のことばかりであり、簡単に式を変形することにより求められる公式の様なものばかりだが、普段人間は暗算をすることに対してそこまで情熱をつぎ込むことは少ないと思われるので、大抵の人は目から鱗的な印象を持つのではないだろうか。
個人的には暗算が出来る、暗算に強いというのは意味あることではないかと思っている。計算が早いということにそんなに意味はないかもしれないが、何かについて思考する際、計算が面倒くさくなって思考が中断されてしまうのは結構経験としてあると思う。すんなりと値を計算出来るとすれば、散歩中にたまたま思いついたビジネスアイデアの有用性を、その散歩中に検討するといったことが出来る。それは意外と大切なことなんじゃないかと思う。計算力にはそういう効用があると思っている。
正直に言うと、面白かったのは第1章のみであり、特に第3章や4章は無理矢理ページ数の為に付け足した文章なのではないかという印象を持った。まあ1章だけでは本として成立しない短さなのかもしれないが、内容はほとんどそこにある。そんな本だった。

狙ってるタイトルに冷めてしまいませんか?

うーん、うまいタイトルは付けられなかった。

 「食い逃げされてもバイトは雇うな」を読むと、「Web2.0ブーム」を引き起こした一番の原因がそのネーミングにあったこと、「ゲド戦記」の宣伝に使われた「宮崎五郎 第一回監督作品」というキャッチフレーズがとても戦略的であったことなどを、丁寧に解説してあり、山田氏がこの手のタイトルやサブタイトルを通したマーケティングに関してとても深い洞察力を持つ人であることが良く分かる。「さおだけ」がミリオンセラーになった理由は、そのタイトルにあったのである。

Life is beautiful: 「さおだけ」がミリオンセラーになった本当の理由

マーケティング上というか営業上というか、タイトルが非常に重要な役割をしているのは間違いないのだが、最近どうも書籍にしろ映画にしろ、「狙ってんだろうなぁ」というタイトルを見ると、まるでそれらが「買って!買って!」と僕に問いかけてきている様な気になってしまい、冷めてしまう(勿論関心することも多いのだが)。
特に翻訳本に顕著なのだけど、売れようとするばかりに「おいおい、そりゃあ誤訳だろ」とか「どっから来たんだこのタイトル」とかそんな風に思わされることも多く、タイトル喰いのこの世界にこれでいいのかと疑問を持ってしまう。なんか映画や小説だと「愛」とか「恋」とかそういう文字を入れると売上が大分違うみたいな話があるみたいだし、経済本やビジネス本でもそのときそのときに流行っている概念とかをタイトルに組み込んだ方が売れ行きも上がるんだろう。
まあたとえタイトル喰いの傾向があっても、中身があれだったら結局淘汰されるんだから問題がないのではないかと経済原則を信じてみたりもするが、ちょっと心配になりますよ。世の中にこれだけ「○○の品格」とかそういう言葉が出回ったりしてるの見ると。
しかしひとつ疑問に思うのだけど、タイトルを勝手にいじられる原作者はどういう気持ちなんだろう。その方が売れるというのもあるだろうし、その国の言葉とか言葉の持つニュアンスを知らないから口出しも難しいんだろうな。