月別アーカイブ: 2007年10月

20071031

mixiの「日記キーワードランキング」って昨夜のテレビの影響がものすごく出るんだよね。昨晩やってた映画のタイトルとか、ニュースで取上げられていた人とか会社とか。結局テレビというマスメディアが発した情報に各自のフィルタをかけてmixiの日記として載せてるわけで。なんていうか、そうやって皆が同じ行動をしているのかと思うと、それだけでうんざりしてしまう。学生の頃からそうだったんだけど、たくさんの人が同じ行動をしているところを想像すると気が滅入る。もちろんそこに僕も含まれているわけだ。それぞれは自分の考えで自分のオリジナルな行動だと思っているわけだけれど、俯瞰している人から見れば結局みな同じ。
だからって、人間なんて所詮、とかそういうことは言う気はないんだれど。

20071030

久しぶりにあの街を通りかかる機会があった。そこは寸分の狂いもなくあの街だった。寸分の狂いもなく。あのときにあった空気がそこにあり、あのときにあった言葉がそこにあり、あのときにあった気持ちがそこにはあった。ただ人だけが変わっていた。目まぐるしいスピードで僕らは変わってしまった。そして一番変わったのは僕だった。寸分の狂いもなく。

20071029

思う、のだが、外食と家庭の料理の違い、というのが何年か前に比べて随分なくなってきているのでは。外食が家庭の料理の様になってきていると思う。近年ではコンビニの弁当だとか、そういうものにまでその傾向が見られる。おそらく、これは外食をする人が何年か前に比べて増えていることの表れなんだろう。そう考えると皮肉なものである。外食が外食、家庭の料理は家庭の料理と棲み分けがあった方が人生にもめりはりがつくというものだが。

村上春樹「風の歌を聴け」〜「ダンス・ダンス・ダンス」

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

「風の歌を聴け」から始まる四部作を一気に読んだ。内田樹さんの村上春樹にご用心を読んだら猛烈に読みたくなったので、講談社文庫で一気に購入した。こういう購入の仕方を世間では「大人買い」とか言うらしいけど、まさにその大人買いである。こういうときに文庫は便利だ。
さて、今更この名作に僕なりの解釈を加えることが何かしらの意義を為すかどうかは分からないというか、おそらく何も為さない。だからつらつらと感想を適当に述べようと思うけれど、まず「名前」というものについて奇妙な感覚を持った。これらの作品に出てくる人物達には基本的に名前というものがはっきりと存在していなかったり、隠されていたり、あだ名で呼ばれていたり、あるいはカタカナ表記されていたりという具合である。一方で場所や建物なんかにはしっかりとした名前が付いていたりと対照的であったりして、この辺に村上春樹氏が何かしらの意図を組み込んでいるんだろう推測しているのであるが、それがなんなのかはよく分からない。
偉そうなことを言ってしまうなら、素人のくせに能書きを垂れてしまうなら、羊をめぐる冒険とダンス・ダンス・ダンスの間には奇妙な溝があるように感じたというか、連続して読んだからかもしれないけれど、昇っていたエレベータの景色が急に様変わりしたようなというか、何か異質な世界に入ったような感覚を覚えた。これは70年代的なものと80年代的なものの違いなのか(そして僕が生まれた時代と育った次代の違いでもある)、村上春樹という作家の成長もしくは変貌によるものなのか、あるいはただの僕の読んだときの体調であるとか気分であるとかそういった読者側の要因なのか、その辺は分からないのだけれど、確かに溝がそこにはあった。少なくとも僕の今回のこの読書においては。
で、僕が一番好きな登場人物は鼠である。いきなり極めてノーマルな感想になったけれど、好きな登場人物を語り合うというのは大事だろう。僕は鼠が好きだ。細かく言うと、主人公との台詞のやり合いの中で繰り出される鼠の印象的な一言が好きだ。はっきり言って、すごくいい。

20071028

「普通のことしか求めてないのに満たされない」という心理について考えてみたい。例えば女性が男性、特に過去に恋愛関係になった男性を評するときに出てきたり、職を転々としてしまう人からも出てきそうな台詞である。「僕は私は普通の水準しか求めていない、つまり理想が高いわけではないのに、何故満たされないのか」と考えてしまう人は、その対象の色々な側面すべてに「普通の水準」を求めているのではないかと推測する。例えば結婚相手の男を測る基準として外見、収入、性格、家族構成、仕事内容、性行為の相性などがあるとする。これら全てに「普通の水準」を求めているとすると、それはかなりレアな男性というか、かなり希少でかなり条件の良い男性であろう。普通の人間であれば、例えば収入は良いけれど性格が激しいとか、見た目は良いけど頭が良くないとか、几帳面だけど神経質であるとか、そういう起伏を持っているものである。その起伏の凹みの部分に目が行くようになると結局「ああ、この人の○○は普通に比べて悪い(低い)んだろう」という視点になる。これではいつまで経っても満たされない。人間相手ではなく、職場選びなんかでも同様だ。つまり「普通でいいのに満たされない」と考える人間は往々にしてマイナス面に目がいく人間なんだろうと思う。あくまで個人的で勝手な思い込みによる意見ではあるが。

辰濃和男「文章のみがき方」

文章のみがき方 (岩波新書)

文章のみがき方 (岩波新書)

朝日新聞の天声人語を書いていた経験のある著者による文章のみがき方論。以前にも文章の書き方 (岩波新書)という新書を著されている様なので、本書は姉妹版ということになる。全然本書とは関係がないのだけれど、僕は新書の中ではこの岩波新書の装丁が一番好みだ。知的でお洒落な印象だが、あまり五月蝿さを感じさせない。
ざっと読ませて頂いたけれど、なるほど、テーマ別に、テーマというのは「文章を書くとき、または日常生活の上で文章を書く人が心掛けておいた方がいいと思われること」を纏めたものなのだが、テーマ別に色々な作家の方の言葉や文章の実例を引用されて、それに対する著者なりの分析やアドバイスや考察が書かれている。「文章を書くために」をテーマにしているけれど、まあ人と話したりするときや何か作品(絵とか映像とかでも)を創りあげるときにだって同様の心がけが必要だと思われるので、クリエイターの方なら一読して得るものはあるだろう。勿論、本書はあくまで文章を書くことにテーマを絞って書かれているので、そこは読み手側に抽象化して読むことは求められるのだが。
本書の具体的な内容は勿論書きませんが(この言い回し、もう何回も書いている気がするので、そろそろ別の言い回しを考えないと)、ひとつだけ批判点を挙げるとすれば、著者のカタカナ語に対する警鐘はちょっと違和感を覚えるというか、あるいはまだ僕が若造だからかもしれないけれど、「それくらいの言葉は使わせて欲しい」とか「むりやり日本語にされてしまうと、はっきり言って分かり辛い」とかそういう種類のありがちな反感を覚えた。世の中にはルー大柴さんばりにむりくり英単語を使う方もいるにはいるけれど(ルー氏のはネタだが、本気でやる人がいる)、あくまで少数派だし、どうせ淘汰されるのだがら頬っておいても問題がないと思うのだけれど。そして淘汰されないものに関しては、それは残しておけって自然の原理がそう言ってるんだと、僕はそう受け止めたい。何十年後もそう思っているかって言われたら責任はとれないって思いますが。

20071027

何かを猛烈にやり始めたくなったとする。例えばいきなり「今日から毎日ジョギングをしよう」って思ったりとか「絵を趣味として描いてみよう」とかそういう思いつきと突発的な情熱がセット販売されているかのような感情って誰にでもあると思う。少なくとも僕には定期的にやってくるのだ。僕はなるべくならそういう感情を殺さないように心掛けている。少なからず投資が必要な場合もあるが-ジョギングシューズを買うとかね-、それもなるべく厭わないように頑張っている。もちろんその投資が、世間で言うところの「無駄」に終わるケースが多いというリスクも承知しているが、そういう生き方なのだからしょうがない。その情熱がいつまで続くのか、どれくらい強いのか、もしかしたら本当に何かしらものにするまで続けてしまうのではないか、とか始めた段階ではまだ誰にも分からないわけで。もし自分が子供を持ったとして、子供の情熱に水をかけない親でありたいな、というのもこんな僕だから昔からよく考えている。
社会的にはそういう情熱を形に変えるためのコストがもっともっと低くなっていくと素晴らしいのではなかろうか。インターネットはそういう意味では若者の情熱を具現化するためのコストを大きく下げたはずだ。そういうことが様々な分野や場所で行われるといい。きっとすごくいい。

20071026

日本人なら電車内での人間の振る舞いに対して一家言あると思う。多くの日本人は日常生活の中で電車を利用しているのだ。だから一家言あると思う。いろいろと苦労もしているでしょうから。
かけこみ乗車というのはあれは心理的なものなのだろうか。心理的というより、動物行動学的にどうしてもやってしまいがちな行動なのだろうか。それを真面目に研究した論文でもあれば絶対に見てみたいと思う。他の国のことはそんなに知らないけれど、日本人ほどそれを研究するのに相応しい存在はいないような気がする。あくまで、気がするというだけのことなのだが。
また、どうも席に執着し過ぎる人が多い。僕は座るとそのまま眠りに入り、隣に座った人に迷惑をかけながら、自分が降りるべき駅をかなり高い確率-どの程度の確率かは恥を晒すことになるので伏せておこう-で通り過ぎてしまうので、基本的には席に座らないようにしている。そうすると、実に座席を巡る様々な人間模様が見えてくるようになった。これはこれで、なんというかワンダーランド。すごく面白い。ってなんか上から目線のようだけど、いや物理的には本当に上からの目線なんだけれど、たかが電車の座席でも、様々な物語を産み出す舞台になりうるんだって。そういうこと。

20071025

朝ごはんを食べる。夕餉の残りをおかずにすることもある。入れ過ぎにならないように注意をしながら醤油をかけた玉子で白いご飯を食べる。納豆も付け合せる。朝ごはんを食べる。凡庸な言い回しだけど一日の始まり。朝ごはんを食べる。ただある生命体が動力源を確保するための朝の活動に過ぎないにも関わらず、そこに何かしらの意味性を求めてしまうのは、やはり僕が人間だからだろうか。いや、犬やミミズやゲンゴロウが食事に意味性を求めていないなど、だれが決め付けられるのか。

20071024

Yes-Noで回答を迫られると答えられない。いや、決断力はある方だし、優柔不断というレッテルを貼られたことも皆無だったと思うが答えられない。これは純粋に質問者側の問題だと思っているのだが、聞いた人間によって解釈の仕方が違ってくるような質問にどうしてYes-Noで答えられようか。例えばこの間、某テレビドラマの広告に「命はお金で買えますか?」という勇ましいキャッチコピーが書かれていた。この質問はまさに「答えられない質問」、「聞いた人間がそれぞれ別の解釈をする質問」なのだ。以下の様な返答が予想出来る。

  • 「いいえ、死んだ人間はいくらお金を積んでも生き返りません。」
  • 「はい、お金がたくさんあった方が、健康を長期間維持できる可能性は高いと思います。」
  • 「いいえ、貧富に関係なく医療は平等に全ての人間に提供されるべきです!だから国家は社会保障を充実し…」

どれも違った解釈をした人から出た答え。これらの人が同じ部屋に集められて議論している様を想像すると、それだけで頭が痛くなるというものだが、実際にはこういうことはしょっちゅう起こっているんだろうな。