あまりこの問題に関するニュースなどは見ていないけれど。ちょっと一言。
例えば会社の経営陣が社内の何かしらの制度(例えば報酬や評価の制度)を変更したとして、それに納得のいかない社員が人事部に辛く当たるという構図がよくある。でも皆、別にそれが人事部のアイデアではないということは理解している。人事部は経営陣の命を受けて動いているだけだと理解しているものの、やはり批判の矛先が人事部にいく。なぜか。お分かりだと思うが、経営陣にはモノが言えないからである。距離が遠いというのも勿論あるが、当然人事部に文句付けるよりもハードルは高い。
今回の件にはそれと似た構図を見た気がした。本当は皆アメリカに文句を言いたいのではなかろうか。でも強いアメリカにはモノが言えない。そこで久間氏がアメリカと同じ意見を口にした。ここぞとばかりに大叩き。普段アメリカにモノを言えないストレスを、モノが言い易い同胞の人間にぶつける。そういう構図じゃなかろうか。
別に久間氏の発言を擁護するとか、いかなる政治的な意見も込められていないのだが、原爆の問題を真剣に考えている方々は、久間氏を糾弾することで何を得ようとしているのかをもう少し考えてみるべきだと思うが。
しかし僕の記憶では、久間氏って多少右側の発言をする事で批判の対象に上がっていたような記憶が。
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田中淳夫「割り箸はもったいない?」

割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書)
- 作者: 田中淳夫
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/05
- メディア: 新書
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なんとなくタイトルに惹かれて購入。感情的かつ扇動的な傾向を帯びている近頃の環境問題への取り組みをターゲットに書かれた本かと思ったが、あまりその色は濃くなく、むしろ割り箸の製法とかそういう話の方が頭に印象として強く残っている。
まあ割り箸に限らないし、環境問題にも限らないのだが、結局我々には全ての事象についてのデータを検証している時間もなく、また能力もなく(ある方も多数いらっしゃるとは思う)、結果として分かり易い構図に引き込まれていく。「割り箸→木製→使い捨て→今木が減っている→無駄遣いだ」という構図はとても分かり易いし、減っている鯨を食べている日本人は野蛮だ、という構図も非常に分かり易い。だからそういう活動に人が巻き込まれていくのは分からないのでないのだが、問題は一度そういうところで考えが凝り固まると、誰が見ても分かり易い様な反証のデータを見せられたりしても聴く耳持たない状態になってしまうことである。そこでコロっと「あ、俺の活動って間違ってた。やめよう」とか豹変できる人間ばかりだと話が楽に進むのだろうけど、中々そうはいかない。どちらかというと男性の方が凝り固まるというイメージを僕は持っているので、気をつけたいと思う。
本の主題とは直接関係ないけれど、工芸品としてもう少し箸に注目してみたいと思った。割り箸にも。
新人のモチベーション
モチベーションという言葉自体あまり好きではありませんが。
労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
報酬はつねに集団によって共有される。
個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
内田先生の文章は相変わらず上手い。僕が読んでるブログの中では最も読ませるブログだ。そして今回の相当興味深いことを書いている(ちなみにこのエントリを書いている時点ではてブが223に対し、コメントとトラバは2つずつ。うーん、アンバランス)。文章が上手いと言っても、適当な事を文才でごまかしているとかそういう話ではなくて、単純に博学であり、かつ洞察が深く、そして自分の頭の中にあるものを上手くアウトプットする能力を持っていると思っている。
さて新人のモチベーションだけど、結局内田先生の言うとおり個人的努力は個人的に報酬に還元されないのは確かな話で、評価制度にどんな手を打ったとしてもそこに不満を感じる社員は消えないだろう(僕も勿論例外ではない)。だから個人的には新人には、会社から与えられる報酬、つまり収入や地位を軸に自分の仕事を考えるのではなく、客観的に見て自分の能力が仕事を通して上がっているのかどうなのかを中心に自分の仕事を考えて欲しい。例え見合った報酬は得られなかったとしても、仕事を通して能力が伸びたというのであれば良しと考えて欲しい。逆に報酬は得られたが、まったくもって能力の伸びない仕事を与えられたとしたら「げっ」と思って欲しい。
まあ上手く書けないけれど、自分が属している分野の中ではグローバルに高い評価を得られる様な人材になって欲しい。そうすれば報酬だっていずれついて来るだろう。
米国のイノベーション気質
今日のウォール・ストリート・ジャーナルの注目記事は、そのGoogleですら、ベンチャー企業に人を奪われている、というもの。上場前の2003年に雇った人たちのストックオプションの現金化が可能になったため、Googleに残るインセンティブが薄れたエンジニアたちが、もう一花咲かそうと次々にベンチャー企業を興しているという。
目まぐるしい技術の進化とそれに伴う経済の進化及び変容。米国が産み出すイノベーションの源泉を垣間見るかの様。ただただ凄い。
これはもはや国民性という気質の問題であり、日本で米国の様にイノベーションを生み出す為の文化を創ろうと思ったらかなり長い年月がかかる。徐々にそちらの方向には向かっているとは思うのだが。
だから若いエンジニアは、絶対に外に飛び出せる技術力と英語力を持つべきだろうとは思っている。
吐露
何をやっているんだろう。
元々何か凄いものを開発したいと思って開発者になった。別にそれはソフトウェアじゃなく、ハードウェアでも良かったんだけど、趣味趣向が自然と僕にプログラミングを選択させた。何か凄いものってなんだろうっていう定義は出来ないけれど、例えばGoogleの検索とかiPodとかトヨタのプリウスだとか、とにかくそういう世界的に大きなインパクトを与えた製品やサービスに心を惹かれたし、そういった製品やサービスの開発物語(プロジェクトXみたいなイメージ)を読んだり聞いたりすると心が震えたものだ。「自分もいつかそんな製品やサービスを世に送り出したい」、そう思った。僕の仕事の目標はシンプルにただそれだけだと思う。すんげぇもんつくる。
でも最近の僕は何をやっているんだろう。1年前くらいにチームリーダーになった。そこから工数の調整だとか上への報告だとかそういう仕事が増えた。会社がそう決めている訳ではないけれど、チームリーダーはコードなんか書かない存在になるべきだという考え方はかなり会社に浸透している様に思う。そんな存在にはなりたくない。しかし正直言えば、一旦なってしまったこのチームリーダーという存在に恋々としている自分が存在する。チームリーダーの給与幅は一般社員より広いのだ。僕にも家族はいる。そんなことを言い訳にしながらどっちつかずの毎日を過ごしている気がする。
この間会社の評価制度が変わった。自分の成果をプレゼンテーションで評価者に発表し、採点するというもの。プレゼンする相手、プレゼンをされる相手は普段一緒に仕事をしていない人達だった。15分のプレゼンテーションでは何も評価できなかった。一部の人はとてもプレゼンテーションを上手くこなしていた。言い訳がましいけれど、僕はプレゼンテーションなるものは得意だと思う。人前も得意。でもだ、終わると思った。ここで素晴らしいプレゼンテーションをして、自分の評価を上げる真似をしてしまったら開発者として終わると思った。その方法論から抜け出せなくなると思った。高評価に恋々としてしまうだろうと思った。開発者として技能を向上させることを馬鹿馬鹿しく思うようになるだろうと思った。だから僕は単調なプレゼンテーションをした。立ってプレゼンテーションをした方が印象が強いだろうというプレゼンテクニックの話が終わったあとに出たけど、僕は来年以降も座りながら単調なプレゼンテーションを行うだろう。無論、自分が凄いものを作れたときにはその凄さを必死でアピールしたいと思っている。開発者ってそういうもんだと思う(実際は、チームリーダーとしてチームメンバーをどの様にマネジメントしたのかを中心にプレゼンテーションするのだが…)。
今僕は不安であり、そして頭に来ている。頭に来ている?何に対して。それは間違いなく自分に対して。会社の評価制度も周りの社員もどうのこうの言ってはいるものの、僕にもっと素晴らしい技術があれば、アイデアがあれば、能力があれば、会社がどんなことを言ってこようとも、どんなことをこちらにさせようとも、世間が僕を評価してくれるはずだから。だから自分の能力の無さに頭が来る。だったら世渡り上手になって能力の無さを隠しながら生きようと思ってしまう弱い自分にも頭が来る。不安なのも結局自分の能力が自分が思う十分なレベルに達していないからだ。全ては自分に起因する。
凄いものじゃなくてもいい。とにかく何かを作ろう。何かを生み出そう。結果それがクソでも構わない。次に繋がればそれでいい。超簡単なゲームでも構わない。意味の無いものでも構わない。会社で作れないなら自分で作るしかない。最終的にも凄いものは作れないかもしれない。でもそれでも構わない。世渡り上手なカスエンジニアになるよりましだ。もし自分には凄いものは産み出せないという結論に辿り着くようだったら、そのときは潔くエンジニアをやめよう。僕にはお金を稼ぐための技能がプログラミングの他にもある。
まとめ
開発者としての自分の能力とのみきちんと向き合う。能力が無いようだったら潔く止める。世渡り上手開発者にはならない。以上。
あー、よく分からないエントリになったけどすっきりした。会社の人間も一部読んでるかもしれないけど、まあいっか。
はてな離れその1
とりあえず、はてなRSSからGoogle Readerに転向した。特に技術面でどうこうという理由ではなく、はてなブックマークが付かないRSSならなんでも良かった感が強いのだが、それでもGoogle Readerの方がさくさく動くのでその面でも良い選択だったかもしれない。
次は今まで過去に溜めてきたはてブをどうするかが問題だ。
変化への対応を学ぶとき、見本とすべきは女性
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変化への対応を学ぶなら、最高の先生は身近にいる女性だ。
昨日映画「フラガール」を観た。もちろんスクリーンの世界なので大きな誇張と共に描かれているが、基本的には「時代の変化についていけない(ついていかない)男性達(炭鉱夫)」と「時代の変化に自分も変わろうとする女性達(炭鉱夫の妻や娘)」という対比がテーマとなっている映画だ。繰り返す様に誇張はされているけれど、日常生活でも十分女性の変化への強さを感じることは出来る。似たような映画や物語はたくさんあるし、おそらく普遍的な傾向なのかもしれない。
さて、映画の舞台となっている昭和四十年代とは違い、現在はインターネットが世界を小さくし、そして変化を早くしている二十一世紀である。こんな時代には日々自分の中に変革を起こしていかなければならない。例えば技術者であれば、自分の技術に自信を持ったとたんに、今度は新しい技術の初心者となる。そういう行動を繰り返していかなければならない。
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ネットイナゴ問題雑感
ネットイナゴについて何か書こうと思っていたら、各所で盛り上がりを見せているようで完全に出遅れてしまった。まあ別に他人より先に書いたからといってどうということはないのだけれども。
一方、はてなブックマークでの厳しい一言で人が傷ついたりしているのを見かけます。誰かがちょっと間違ったということを指摘するのに、バカとかアホとか、そんなことを書く必要は本当にあるんだろうか、自分の思う正しい回答を丁寧に示すだけでよいのではないか、と思います。
こういう「誰かが傷ついた」的なミクロな話に向かうのは意外だったというか、ちょっと方向性が違うのではないかと思う。結局のところWebが皆にとってどの様な場所になるべきなのか、どの様な場所になると嬉しいのか、というマクロな話が今問題になっているんだと認識している。その意味では池田信夫さんの記事で述べられている視点は共感できる。今こういう議論をすべきでないかと思う。例え話としてはちょっと暗いのだけれど、年間交通事故で1万人近くの人が日本だけで亡くなっている。おそろしい数だと思う。けれど自動車はマクロで見れば我々を幸せにしたのではないかと思っている。例えばそういう話。上手く書けないけれど、どんな物やサービスもミクロで見てしまえば誰かを傷つけたりすることはある。誤解を恐れずに言えばそれはしょうがないことだ。でも今のはてブは全体の質としてどうなの、という話をするべき。人を小馬鹿にすることが中心のしょうもないネット空間になってしまったらどないすんねんと、そういう話に持っていかなければならないはずだ。
前にも書いたと思っているのだが、結局はてブでコメントできてしまうことが全ての元凶なんじゃないかと僕は考えている。あのコメントには一種の独特な暗さを感じるのは僕だけではないのではなかろうか。あのコメントで吹いたことも何度もあるし、納得できないエントリのコメントに共感したこともある。ただじゃあ何か本質的に役に立った事があったか、と考えると、一度か二度そういうことがあった程度だと思う。ただし自分のはてブに付けた自分のコメントは後からの検索時に役に立つ。もともとそれを想定した機能だろう。だからはてブのコメントは自分のだけ見れる様にしてくれて僕は構わない。人のエントリや記事に反応したかったら、トラックバックやコメントで正々堂々と反応すれば良いのではと思う。ここまで書いてきて思ったが、はてブのコメントに独特の暗さを僕が感じるのはそこに責任を感じないからかもしれない。人がいるという気がしない。その意味ではid:naoyaとは正反対の感じ方をしているのかも。
まあ1ユーザとしては、あまりにもしょうもないサービスになってしまったと判断したら、より良いサービスに移行するだけである。もちろん使いなれたものから移行するコストというのはそれなりなので、はてなには頑張ってもらいたい。もちろん協力できることがあればしたいと考えている。
メリットとデメリットを比較するな
別に僕は生き方の達人という訳ではないが、それでも「あぁ、この人は生き方が下手くそだな」と人に対して感じることがある。僕が言う生き方が下手くそというのは、結局のところ幸せ上手かそうでないかということなので、僕がそう感じる人と言うのは大抵幸せ下手な人である。
僕が人に対してそう感じるときのパターンというのはいくつかあるのだけれど、その内のひとつとしてメリットとデメリットを比較してしまう人、というのがある。
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村上春樹、柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」

- 作者: 村上春樹,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2003/07/19
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キャッチャー・イン・ザ・ライを読んだので、ようやく本書を読むことが出来た。あまり本は本棚に眠らせておく方ではないので、それなりに本書のことが気がかりだった。読み終えてすっきりしている。
前作の翻訳夜話とは違い、本書はあくまでサリンジャー、もっと具体的に言えばキャッチャーについて村上、柴田、文藝春秋編集部が語り合うという内容である。巻末にはキャッチャーには掲載することが出来なかった訳者あとがきが掲載されているので、村上訳のキャッチャーを読んだ方はまずこちらも購入していることだろう。*1
本書の感想を書くとキャッチャーの感想になってしまいそうなので気をつける。
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