なんでも」タグアーカイブ

教育をエンターテイメント化すれば、本当に子供は興味を持つのだろうか

テレビ番組などでしばしば「科学ってこんなに面白いんだよ」的な実験を子供に見せ、楽しんでいる子供達を映しては「ほら、こうすれば子供達は興味を持ってくれるんですよ」というような結論にもっていく様を見る事がある。乱立するお笑い番組やクイズ番組などに比べれば質の良い番組だと思っているし、そういった番組を楽しく見ることもある。しかしながら、あのように教育をある意味エンターテイメント化することで、子供達はその学問に本当に興味を持ってくれるのかと考えるとかなり疑問がある。少なくとも恒常的な興味を持ってくれるだろうかと問えば、かなり疑問である。
一時的な意味で、という事であれば、間違いなく興味を抱かせることには成功していると言えるだろう。しかしその一時的な興味で終わってしまっているのではないか、「楽しかった」「面白かった」までにしか到達できていないのではないか、従来の非エンターテイメントな授業と比べての違いは、結局子供が楽しんだのか、それとも楽しくなかったのかの違いにしか過ぎないのではないかと考えている。「子供達は楽しんだんだから、次は積極的に自分から学びはじめるはずだ」という声が聞こえてくるかもしれない。しかしいざ学び始めてみれば、結局エンターテイメントとして飾り付ける必要があると考えられたもの、例えば理論や方法論が彼らを待っている訳だ。ふとエンターテイメント化された授業が終わった後に周りを見渡せば、ゲーム機があって、アイドルの番組がやっていて、ファッション雑誌があって、つまり彼らにとってもっと凄いエンターテイメントがいっぱいという状況だろうし、果たして何人の子供達がその一時的な興味を保ち、長期的な興味に切り替え出すかと考えるとすごく少ないだろうと思う。そしてその数が従来の非エンターテイメントな授業に比べてそんなに多くなるのだろうか。ならなそうだ、というのが個人的な推測。
そもそも、もし「子供達は楽しめば、自ら興味を持って勉強しはじめる」という仮説が正しいとすれば、例えばディズニーランドの経営状況に興味をもつとか、テレビゲームの制作方法に興味を持つとか、ジェットコースターの動作原理に興味を持つとか、ファッションやメイクの歴史や方法論に興味を持つとか、アイドルグループのマーケティング方法やCDの制作方法に興味を持つとかそういう子供が大量発生してもいいはずだと思う。どんなことであれその裏側まで突っ込んで見る目を持てば、学問として十分に成り立つ事柄が存在しているものである。これらエンターテイメントは十分に子供を楽しませていると思うが、その裏側や本質について学び出す子供の数って多いのだろうか。おそらくそんなことはないだろう。であるならば、電気を使った面白い実験で子供を楽しませても、「電気ってそもそも何だろう」と動き始める子供がそんなにたくさん出てくるとはとても思えない。子供達はとりあえず、楽しむことを楽しんだだけに終わってしまうのではないだろうか。もちろん子供達が楽しんでいる様は、いつの時代も美しいもので、それ自体はそれだけで素晴らしいことであるのだが。

レッテルを貼るという行為は思考停止方法のひとつ

レッテルを貼るというのは、簡単に思考停止する方法のひとつでもある。「あの人は○○だから」とか「あそこの会社は△△だから」なんていう発言が代表例かと思う。そういう発言をしてしまうこともあるし、聞く事も多くあるが、「なんで○○だとそうなるの?」、「なんで△△だとその結論になるの?」と問いかけてみると、何かしらの論理的な考察が裏にある発言だったのか、それとも単にレッテルを貼付けて思考停止に陥っていたのかが分かる。気をつけていないと、大抵後者だったりする。
ちなみにこのレッテル貼りは有効活用もできる。まずよくあるのが、敵対する人や組織にレッテルを貼付けてしまうことである。上手くすると、その人や組織の回りにいる人間を思考停止に陥らせることができ、何かあったときに「やっぱりあいつらは□□だから駄目なんだよ」というような非論理的なイメージによるダメージを喰らわせることができる。もうひとつの有効活用方法は、特に結論を出す必要もないけれど話を終わらせなければならなくなったときに、「まああそこの会社は××だからね」と適当なレッテルを貼って話を終わらせるという使用方法。まあ意識せずとも、皆日常的にしていることだと思う。
いずれにせよ、思考停止には気をつけたい。

人の専門性を活かさない国、日本

博士の就職難、というのは何とも悲しい話だが、報道等によれば事実みたいだし、正直社会人をしばらくやってきた経験からも納得できる話ではある。

日本の博士の就職難問題は博士が100人いる村で数年前に知ったが、当時は冗談みたいな話だと思っていた。ところが、東京新聞「博士号”難民”1万2000人の嘆き」なんかを読むうちに次第に深刻さが伝わってきた。最近のニュースだと、職が見つかりやすいと思われていた工学系でも平均すると出願者の競争倍率が0.65倍だとかで、倦厭されているのがよくわかる。詳しくは下の記事参照。

http://w-it.jp/shima/2008/03/post_27.html

日本の根底に流れる平等意識というのは根強いもので、これはこう書いている僕も例外ではなく、基本的には皆を皆と同じように扱わなければならないというのがこの国で育ってきた人間の自然な気持ち。そうなると、高い専門性を持った博士号取得者を日本企業が敬遠するのは至極もっともな話で、「どうせ同じ様な(専門性の高くない)仕事をやらせるし、似た様な給料を払うのだから、まっさらな若い新卒がいい」というのが何と言うか流れなんだろうと思う。
しかしこれは非常にもったいない話ではある。専門的に何かを勉強してきた人にはその何かに絞って力を発揮してもらえばいいし、他の事は大の苦手だけれども、あるひとつのことに限っては光り輝くパワーを発揮する人間がいれば、そのパワーを遺憾なく発揮出来るポジションに置いておくのが社会の為というものだろう。こう書いてしまえば「そうだそうだ」とほとんどの人は賛同して頂けるだろうけれど、実際にこれを会社や組織で実践しようと思ったら、間違いなく難しい。
逆に言うと、自分の専門性をいかんなく発揮出来ているポジションに現在就いているという人は、かなりラッキーなんだと考えた方がいいかもしれない。

このブログのアクセス状況を晒してみる

先月は最初の二日を除き、毎日当ブログにエントリをアップした。それを記念して先月のアクセス状況をこちらに晒してみる。たまにアルファブロガーの方がアクセス状況を公開しているときがあるけれど、普通のブロガーが気になるのはやっぱり普通のブログのアクセス状況だろう。
2008年2月のアクセス状況は以下の通り。

ちょっと見づらいのだが、アクセス総数が6415で、ユニークアクセスが4713となっている。
次に日ごとのアクセス状況を見てみる。

見ての通り、先月は毎日記事を書いた事もあり、コンスタントに200/日程度のアクセスを頂いた。多少注目されたエントリを書いた月に、これ以上のアクセスを記録したことはあったけれど、やはり書き手としては突発的なアクセスではなく、コンスタントなアクセスが多い方が嬉しいというものだ。ちなみにぴよっと一本飛び抜けているのはこのエントリをアップした日で、はてブの注目エントリーからトラフィックが流れてきたのが大きく、ユニークアクセスが約600となった。
来月は色々と環境が変わる為に更新頻度が落ちてしまうかもしれないが、なるべくこのペースを保っていきたい。

ネット世論と人の思考パターンは似ているかも

これってつまり人間の思考パターンが、インターネットではそのまま表現されるということなんじゃないか。

ところでネット上の反応には「下げてから上げる」というパターンが見られると思う。最初条件反射的に批判的なものを含む感情的なコメントがたくさん見受けられ、その後に肯定的なものを含む理性的な批評的意見が現れるというパターンがあるのではないか。それなりに新規性があり、且つ、論ずるに値するだけの価値があると思われる話題については、ネット上でこのパターンがよく現れると思う。

下げてから上げるネット世論 – jkondoのはてなブログ

他人の思考パターンは分からないので自分の思考パターンを考えてみると、何か気になることがあったとき、感情にどこか引っかかる事が起きたとき、特異な意見や考えを耳にしたときなどには、どうしても批判から入っていく傾向にある。「それって大丈夫なのだろうか?」とか「上手くいかないんじゃないだろうか?」とか「(相手の知識や経験など鑑みて)あまり有用な意見じゃないんじゃないだろうか」とかそういう考えから思考が始まる場合が多い。最近はそこまでじゃないけど、もうちょっと若い頃はこの時点で感情的になることもあったように思う。しかし数日経ってから冷静な自分にもう一度考えさせてみると、最初に思考を邪魔していた何かがいなくなっていて、その意見の良い側面であったりとか、一理ある部分とか、認められる部分なんかが見えてきたりする。そして最終的には自分が間違っていた事に気づくこともある。あるいは自分と方向性の相違があるだけで極めてまともな意見であったと思ったりとか。その思考を邪魔するものってプライドだったり過去の経験だったりそういうものなんだろうけど、まあ誰にせよ持っているものな訳で、邪魔されているのもきっと僕だけではないだろう。
インターネットの話とずれてきたので戻すけれど、id:jkondoが言っているネット世論のパターンというのは、人が思考するパターンに似ていると思う。人の思考パターンが世論に表れているんだったらなんか健全な気がするし、ネット世論の可能性が見える部分なのかもしれない。なんかそういう一連の世論の流れを追える様なサービスがあったりするといいかもしれない。ただ今現時点で忘れていはいけないと思うのが、ネットで意見を発信しているのは、少なくともこの日本ではまだ限られているということ。勿論テレビに比べれば桁違いの人間が意見を発信しているが、じゃあ多様なのかと問われれば、現在は偏っていると答えざるを得ない。そういう状況のはずだ。

そろそろ米国の連続ドラマについて一言言っておくか

すっかり定着した感のある米国の連続ドラマなんだけど、そろそろ一言言っておきたくなった。24くらいから一気に人気が加速した感があるが、はっきり言ってほとんどどのドラマも先が気になる作りになっているばかりで中身がない。この「先が気になる」ということを演出する能力にかけては米国のテレビ会社は世界一なんじゃないかと思うが、結局米国のドラマが誇るべきは大抵それだけである。個人的にはもう一回見たいと思ったりであるとか、記憶に残っているシーンを思い出してにんまりだとかそういう経験をしたことはない。
最近はHEROESが話題のようですが、まずあらすじからして以前にやっていた4400と酷似している。普通の人々にある日特殊能力が備わって、その人達がともに集い、悪に立ち向かうというのが大まかなストーリーのようだ。別にパクったとかそういう事が問題とは思っていないが、ほぼ同じ様なあらすじでやっていたドラマが最近まであったのに、似た様なあらすじを持つHEROESがヒットしているというのは不思議に思える。

ある日突然何者かに連れ去られ、ある日突然光る球体と共に返された4400人の失踪者。「4400」と呼ばれるようになった彼らは、不思議な能力を備えており、社会に何らかの影響(作中では波及効果と呼ばれている)を少なからず与えていく。事件の謎を「4400」の1人が身内であるトムと相棒のダイアナの2人の捜査官を中心に描く。「4400」のそれぞれは、この60年の間様々な時代から連れ去られていったが、彼らは当時の年齢から一切の年を重ねておらず、また失踪中の記憶も一切保持していない。

4400 未知からの生還者 – Wikipedia

アメリカ、インド、東京。遠く離れたまったく別の土地で、ある現象が起こり始める。平凡な人々に突如として、特殊な能力が備わりはじめたのだ。空中飛行、肉体再生、未来予知、時空操作…。自分の能力に使命を感じる者もいれば、能力を恐れひた隠しにする者、自分の能力を悪用する者が現れる。そして、相手の能力を奪う殺人鬼「サイラー」、2008年11月8日に起こるニューヨークでの大爆発。それらを阻止しようと、まったく繋がりの無かった彼らが、集い始める。彼らを待ち受ける運命とは一体…。

HEROES (テレビドラマ) – Wikipedia

まあでもこのWikipediaのあらすじを読んだだけで「HEROES、ちょっと見てみようかな。どうなるんだろう」という気持ちを抱かせてしまうあたりは流石というか、人間が持っている本能、覗き穴があったら覗いてみたくなる本能に直接訴えかけてくる何かを持っている気がする。上述したように、そういうものを作り出す能力で米国のテレビ局とか映画会社は世界一なんじゃなかろうか。でも長く愛される味わい深い作品を作る力においてはかなり欠けている状況が続いていると言わざるをえない。ドラマは人気がなければすぐに打ち切られる可能性もあるし、製作サイドからすればとにかく初回からしばらく視聴者の興味を惹き付けておく作りにせざるを得ないという辛い事情もあるだろう。そのあたりは資本主義が抱える構造的な問題と捉えても良さそうだ。

特例の扱いが上手いアメリカ

米国では科目別に飛び級制度があって、数学と科学で飛び級しました。この仕組みのよいところは、飛び級クラスは1年の3分の1の時間を使って、自分の関心のある分野の研究をしてよいことです。この時間を使ってCGの勉強ができたのです。ある意味「有効に機能したゆとり教育」だったと思います。

テクノロジー : 日経電子版

記事の見出しが若干煽り気味ですが、これはゆとり教育の話とはほとんど関係なく、どちらかと言うと「なんてアメリカという国は特例の扱いが上手いのだろう」と関心すべき記事であるように思う。
アメリカは本当に例外的に能力のある人間の扱いが上手いというのは僕の印象だし、多くの人の印象でもあるのではないか。扱いが上手いというよりは、能力のある人が爆発的にその能力を発揮する為の障害が少ない国だと言える。逆に言えば均質に人や物事を扱うのが得意ではないため、例えば日本の様に横並びで扱ってあげればそこそこの能力を発揮出来た人間を、アメリカ的なやり方では駄目にしてしまうといったことも多々あるだろう。このようなメリットとデメリットをしっかりと把握した上で、日本の教育のあり方について考えるべき。この記事はその議論の為に良い材料と言える。
プログラムとかソフトウェアの開発というのは、一人の人間が多くの能力を発揮するのに適した領域であるが故、百人の組織された凡人に、一人の自由な天才が勝ってしまうというような現象が起こり易い領域だと僕は思っている。それ故アメリカの例外的に能力のある人間を伸ばすというやり方が、アメリカのソフトウェアの競争力の強化に繋がり、ひいては経済の牽引力とまでなっているのではないだろうか。

デザイン変更&初お絵描き

言わなくても見れば分かることですが、ブログのデザインを変更してみました。ついでに初めてのお絵描きにも挑戦してみました。絵を描く程に直感的な事もこの世には少ないと思います。実に近藤社長らしいアイデアですね。
ブログのデザインを変えるのは、どこか髪型を変えるのに似ているようで、新たな気持ちに身が引き締まります。

Openness and Inovation. The principles of the Internet

そう言えば、MicrosoftによるYahoo!への買収提案についてGoogleから何かコメントが出たのかどうかを気にしていたのだけれど、いまOfficial Google Blogに公式見解らしきものがアップされたようだ。

The openness of the Internet is what made Google — and Yahoo! — possible. A good idea that users find useful spreads quickly. Businesses can be created around the idea. Users benefit from constant innovation. It’s what makes the Internet such an exciting place.

So Microsoft’s hostile bid for Yahoo! raises troubling questions. This is about more than simply a financial transaction, one company taking over another. It’s about preserving the underlying principles of the Internet: openness and innovation.

Official Google Blog: Yahoo! and the future of the Internet

今回の買収がインターネットが持つオープンさと革新性の保護という観点からいくつかやっかいな問題を投げかけるだろうとのこと。これに続く文章では「またあのときと同じことが繰り返されるのか」とPC時代のことを今回の事に重ね合わせてMicrosoftを批判している。以下のように「世界各国の政治家は、ここに書かれた質問を尋ねる必要があるだろう」と結構強いメッセージまで発している。

Policymakers around the world need to ask these questions — and consumers deserve satisfying answers.

エントリを以下のように結んでいるが、どうも個人的にはGoogleがopennessを文化の核としているようなイメージが持てない。彼らは情報共有には相当拘っているように思えるので、社内事情ではopennessを大事にしていると言えるのだろうが。

This hostile bid was announced on Friday, so there is plenty of time for these questions to be thoroughly addressed. We take Internet openness, choice and innovation seriously. They are the core of our culture. We believe that the interests of Internet users come first — and should come first — as the merits of this proposed acquisition are examined and alternatives explored.