模索」タグアーカイブ

正しくても感情的に受け入れがたいこと

論理的に考えれば正しくても、感情的に(あるいは本能的に)受け入れがたいこと、ってのが世の中にはあると思う。例えば定率減税廃止、これに着目してみる。定率減税は廃止されるのに、高額所得者(3000万円以上だそう)に対する減税措置と、法人税に対する減税措置が廃止されないことに非難の声が挙がっている。「貧乏人からばっかり金とってどうすんだっ!金持ちから搾り取りやがれっ!」とついつい感情的になってしまいがちな話題だ。僕も例外ではない。
だけど政府の気持ちも分かる。結局景気に大きく影響を与えるのは会社やお金持ちである。このお金を使ってくれる方々の動きを封じるような増税は経済的に見て損失も多く、最終的にお金の無い人の利益にもならない。一方お金が無い人はもともとあまりお金を使ってくれないので、景気に与える影響は小さい。だったかこの人達から少しずつお金を集めて、使わないお金を政府が何かに使った方が経済的に見て全員に利益があるだろう、そういう考え方なのだ。
とここまで考えたとしても、やはり何か受け入れがたいものを感じてしまう。本能的に嫌がっているというか、「生理的に受け付けない」というやつだろう。大多数の人はこの感覚を持っていると思う。だからこれを国民に理解させるには超ド級の説明能力が必要であり、そんなの持ってない政府は、説明無しに強引に施策を進めるしかないのである。今の構図ってそんなんじゃないかなぁ。

ちなみに定率減税廃止をはじめとする、所謂サラリーマン減税が正しい、正しくないの議論ではないのでご了承を。

SNSが採用活動に与える影響

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060324
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50428609.html

id:umedamochioさんとDanさんのところで簡単な議論が交わされているが、Danさんが論じたような世界は、やはりまだ「ちょっと遠い所」的な感覚を持ってしまう。ネットリテラシーが低いのかなぁ。

それよりも

そういう状況になってはじめて、社会全体に及ぼすインパクトが大きくなる。

「そのインパクトって何なのだろう」ということを考えるのが面白い、というのが僕の関心領域である。

と梅田さんが関心を持つ領域だが、僕の身近では採用活動にSNSを始めとするWebの世界が与える影響を大きく感じる。
僕の企業がやっている採用活動は、日本の大学生の中ではかなりの知名度があり、それの運営にメインで関わっていたことがある。さらには採用後の社員の教育を担当することもあったのだが、どいつもこいつも会社のことをよく知ってると驚く。こんなこと、一昔前で言えば「OB訪問」という形でうわべだけの情報を得ていた人からしたら信じられないことだろう。自社の名前を様々な場所で検索してみれば、いたるところで情報が共有されているのが分かる。ああ恐ろしい。今どき希望の企業をググらない学生がいる訳ないし、情報はほぼ筒抜けだ。
企業の規模や知名度、およびブランドに学生が踊らされていた時代は終わりを迎え、ネット上で手に入れる新鮮な情報を元に学生が進路を決める時代が来ている。そういう意味で、情報を発信している社員の満足度が、その会社の人材市場においての価値を左右するようになっている訳で、ただ有名企業だからってだけで人を集め、釣った魚に餌をやらないできたような企業が、採用市場において株価が暴落するといったことが起こってくるだろう。

追記:

またトラックバック二重送信になってしまった。失礼。

追記2:

CNETで「ネット時代のキャリアと人脈とは?–SNSとブログの活用方法を探る」という記事を見つけた。

http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20099281,00.htm

採用、キャリアプランなどの著書で有名な梅森浩一さんの基調講演があったようだ。

梅森氏は「長く続く人脈は、相手が自分をどのように評価するかによって決まります。大切なのは、自分が何を持っていて何を提供できるのかをアピールすること。人間関係の基本は、ギブアンドテイク。利害関係の一致が人脈構築にとって一番大切なことなのです」と説明する。つまりは、自分はがんばっているとアピールしていても、他人にとって利益が得られないものは評価につながらないという訳である。

ネットの世界には、何の見返りも求めずに情報をギブし続けてる人が五万といる。というかそれがネットの本質だと思う。梅森さんはやはり、自分の領域としているリアルな世界での考え方でネットを捉えているようだ。ネットの人脈をリアルに繋げていく必要なんて本当にあるのだろうか。

コーディングはエンジニアリング

「ソフトウェアの仕様書は料理のレシピに似ている」が盛り上がりを見せている。僕と同じく、この業界にいる人が、たくさんネットを見て回っているのがよく分かる。

さて、業界構造がゼネコン業界に似たり寄ったりでおかしいことになっているのが事実だが、当のエンジニア達も、「いつかはこの下積みのコーディング生活から抜け出して、設計を手がけ、何百人の開発者を下に付けて…」なんてキャリアを思い描いているように見えるのですが、どうでしょう。僕はエンタープライズ系と言ってもパッケージベンダーで(受託開発ではない)、下請けに開発を発注したりということはないが、それでも上記のように考えている開発者が多いと思う。35歳限界説なんて言葉が生まれるのも、結局どこかコーディングを軽視しているからだろう。そんでもって軽視している奴に限って、コーディングの出来ないプログラマか、開発をまったく経験していない経営者やコンサルタントという訳だ。

ここで言っておきたいのが、「レベルの高いコーディングは、エンジニアリングであるということ」だ。エンジニアリングの分野に従事していると考えれば、開発工程の下流に存在するエンジニアが邪険に扱われていることに違和感を覚えると思います。ちょっと前にid:umedamochoさんのところで盛り上がっていた「虚業という言葉について」じゃないけれど、実体の伴わないソフトウェアやWEBサービスに、やはり「エンジニアが物を創っている」という感覚を持てない人がたくさんいるんだな、と感じる今日この頃。だからなんとなく軽視されてしまうのでは。

エンジニアの「驚かせたい欲求」

CNETにてブログ「Kenn’s Clairvoyance」を連載中の江島健太郎さんが、「創造的なエンジニアのための働く環境とは」というエントリの中で興味深いことを書いていたので、ちょっとそれについて考えてみたい。

http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/002625.html

こないだCNET編集長の西田さんとも話していて、エンジニアのタイプでも最もはっきり分かれていると思ったのは、この2類型。

(1)クリエイター・ギーク系

  • 小規模なベンチャーで新しいサービスを作りたいタイプの人
  • 会社の中で認められたいのではなく、会社の外で認められたい
  • 週末も趣味でコーディングしている
  • お金、ステータスにこだわらない

(2)プロフェッショナル・傭兵系

  • 大規模なプロジェクトで手際よく美しくコードが書ける人
  • 身近な人たち(会社、顧客、家族)を幸せにしたい
  • 「つくりたいもの」よりも「ビジネスになるもの」を優先
  • 安定収入、ステータス重要

これは非常に共感できる区分けである。確かにこの2類型ははっきりと分かれる。ちなみに僕は(1)に憧れる(2)タイプ(しかも未熟)だと思う。
さて本題だが、(1)のようなエンジニアを社内に抱えてるとして、絶対に用意してあげなければならない環境がある。それは「こそこそと社内の誰にも内緒で物を創れる環境」である。つまり何が言いたいのかというと、「驚かせたい欲求」を満たしてあげられる環境である。優秀なエンジニアは概してこの欲求が強いと思う。内緒で物を創り上げて、「さぁ驚け」とばかりにみんなの前に持ち出し、「おおすげー」という歓声を聞きながらほくそ笑んで、それを糧にさらなる開発や改良に乗り出す。そんなエンジニアである。
id:jkondoさんが日記の中で「ごにょごにょ」という言葉を使ってこの環境を表現していた。はてなの共通用語なのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/jkondo/20060225/1140856445

今日ははてラボのいわしをごにょごにょ改造しました。

大企業になってくると、とかく「今期の開発計画を立てて報告しろ」とか「仕様をまとめてから開発に取り掛かれ」とかごにょごにょから遠ざかる方向に進んでいく。大企業の大規模プロジェクトになると、どうしても「管理」というものに対してものすごいコストをかけなければならないので、ある面これはしょうがない部分があるのだが、この「ごにょごにょ」を開発計画の20%くらいには取り入れても良いのではなかろうか。つまり80%の力で計画通りのプロジェクトに参加し、あとの20%をごにょごにょさせるのである。エンジニアをクリエイティブに扱いたいなら一考の価値があると思う。

直感と論理的思考

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20060222/1140561565

で紹介した「簡単に、単純に考える」の中で、羽生義治氏が興味深いことを書いていたのでここで紹介したい。

将棋には「読む」プロセスと「大局観」で判断する局面がある。「読む」作業は、余計なことを考えずに、ただ指し手を次から次へと頭の中で進めていき、その結果どういう場面になるかを想定することである。一方、「大局観」は、パッとその局面を見て、今の状況はどうで、どうするべきかを直感で判断することである。当然、若いときは体力があり、集中力も高いからたくさん読める。
(中略)
一方、年を重ねると、ただ読むのではなく、思考の過程をできるだけ省略していく方法が身につく。修羅場に強くなるというか、経験をうまく活かしていくのである。晩年の大山康晴先生の将棋は、まさにその典型であった。

たとえば、一つの局面で、この局面は「この手しかない」と閃くときがある。一〇〇%確信を持って最善手とわかるのだ。論理的な思考を直感へと昇華させることが重要なのである。勝負の場面では、時間的な猶予もあまりない。論理的な思考では、時間もかかり相手に後塵を拝してしまうかもしれない。初手からの流れのなかで、これしかないという判断をしている。つまり、思考の過程を細かく砕かないで、どんどんやっているのだ。

また、

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20060228/1141075355

で紹介した「文体とパスの精度」の中で、中田英寿氏が、村上龍氏との会話の中で以下のように言っている。

中田 おもしろいよね。試合後に「あのときは何を考えてパスしたんですか?」って訊かれても、考えるというより、それは反応だろうってよく思うんだけど。(笑)結局、練習の積み重ねしかなくて、その中から本能的にチョイスしているだけ。あそこにスペースがあるからとか、たぶんあそこのディフェンダーがきて、四秒後に追いつくかな、みたいなことをいちいち考えているわけではない。それは瞬間的な判断としか言いようがないし、そのための反復練習なんですよ。

「直感型の人間である」とか「論理的に考える人間である」といったような表現は、正反対のものであるかのように捉えているのが一般の感覚だろう。だが一流の棋士であり、一流のスポーツ選手である両氏の言葉より、「直感」と「論理的思考」という言葉に対する認識を改める必要性を感じた。
概ね我々が従事している仕事は、将棋やサッカーよりも判断に使える時間が長い。だが全ての物事を論理的に詰めている時間は当然なく、最後には直感、悪く表現すれば「なんとなく」で物事を決断するケースはやはりある。論理的に詰めた決断でなかったり、ある方法論にのっとった決断でなかったりした場合は、説明責任を果たしづらいし、何より、結果はどうあれ、自分の中で悔いの残る決断だったりする。その為なるべく「なんとなく」の決断を減らそうと、論理的な説明付けのために時間を費やしたり、今までの実例や実績、誰かの方法論にのっとった決断に逃げたりする。これらは決して誤った行動ではないが、自分の思考が、学んだ方法論が、最後に自分の直感として昇華されるなら、堂々と直感に従って決断を下して良いときがあるのではないだろうか。少なくとも、そういう視点を持って仕事を進めていっても良いのではなかろうか。
僕は自分にとって、「論理的に思考すること」、「方法論を学ぶこと」は大事だと考えている。それは世間一般で言われている「直感的な行動」をしない為だと考えていたが、最終的により良い大局観を持って物事を判断する為だと考えるべきなのかもしれない。新しい視点を与えてくれた両氏には感謝したい。

若者言葉と日本語ブーム

2005年は日本語ブームが話題となった。まあ要は「若者言葉が気になる」って話と「日本語ってこんなに素晴らしい」って話であれこれ盛り上がっていた訳だ。さらに「若者言葉が気になる」って話は所謂「やばい」とか「ありえない」とかに関する議論と、2chをはじめとするネット上での日本語に関する議論に分けられる。

議論を進めて頂くのはおおいに結構だが、日本語に対して保守的なスタンスの皆さん、言葉とは生物であり、環境に適応すべく変化していくもの」という視点をお持ちですか。簡単な話、鎌倉時代と江戸時代で言葉の使われ方が違うように、江戸時代と現代でも言葉の使い方が違う訳だ。「貴様」や「御前」という言葉は上品な言葉だったものが違う意味を持つようになったと想像するが、これと同じことが「役不足」や「煮詰まる」という言葉にも起きているっていう論理展開だって可能なはずだ。半数以上が誤用しているという調査結果があるならなおさらだ。「言葉の意味合いが変わる局面」に私達は立ち会っているのだ。かつて電話や印刷技術によりコミュニケーションが増大したように、携帯電話とインターネットが口頭、文頭両面でコミュニケーションを増幅した。しかもおそらくかつてないインパクトを日本語(というか言語)に与えており、保守層が慌てふためくのも無理のないことなのだ。

id:finalventさんが「言葉とか日本語を愛するかという人間は、なぜ生まれ出る新しい言葉の誕生のその場に驚愕しないのか」の中で

美しい言葉があるのではなく、人と人の関わりの場面の美しさが言葉のなかにsettleする。だが、新しい人間の関わりはどうしても古い言葉をつきやぶっていく。そういうものだ。

と書かれている。携帯電話やインターネットという今まで人類が経験したことのないリアルタイム性と簡易さを持つテクノロジーによって、人間同士に「新しい関わり」が生まれた。そして冒頭で述べたとおり、適者生存の理に従って「言葉」という生物が適応を試みているのだ。そしてこの適応はかならず成功する。

今後10年、20年でGoogleをはじめとする企業群によって本格的に「言語間の壁の破壊」が行われることになるだろう。そのとき言語は経験したことのない環境の変化に再び直面し、適応を試みるはずである。