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「慣れること」と「上手くなること」の違い

「英会話に慣れること」と「英会話が上手くなること」の違いが世間ではあまり認識されていない気がするが、自分の英会話力、もっと言えば会話力を伸ばすうえでも一つ重要な認識になると思うので、ここで考えを述べたい。

「英会話に慣れること」、これは世間一般でイメージされている「英会話力の向上」のことである。それは「英会話習得の一番の近道は、外国人の恋人を作ること」という助言や、「英会話に面倒くさい文法の勉強は不要。優しい外国人講師との会話を通して…」という英会話学校の謳い文句や、「中学生までにならう英単語で、英会話は成り立ちます」という言葉に表れているイメージである。ここで例に挙げたよく聞く台詞はどれも誤っていないが、これらは「英会話に慣れる」ための話であることに注意しよう。
どういうことなのか。「英会話に慣れる」為の行動だけでは、自分の英会話を豊かにできないのである。そして英会話を豊かにすることこそ「英会話が上手くなる」ことに他ならない。外国人の恋人との対話や、英会話講師と毎週お話だけでは、「英会話に慣れた」状態から一歩前に進むことがなかなか出来ないのだ。壁にぶつかってしまうのである。この現象を経験された方は結構多いのではなかろうか。
「ただある言語を喋っているだけでは、その言語の会話力はなかなか向上しない」というのは、自分が毎日使っている日本語のことを考えればすぐ理解できるだろう。僕も毎日それなりの量の日本語を話しているが、それだけで自分の日本語表現が豊かになっていくとはとても思えない。

では会話が上手くなる為にはどうすればいいのか?それはやっぱり読書であったり、文法の理解であったり、単語力の増強であったりする。つまり勉強なのである。日本語の読書を通して、自分の言葉が豊かになったのを感じたことがある人も多いだろう。あれである。結局勉強をすることによって、自分の会話力を増強するしかないのである。「例えば会話をしていて、相手が自分の知らない表現を使えば勉強になる」という意見もあると思うし、それは正しいとも思うのだが、勉強よりも効率が悪くなってしまう。頻度が少ないのである。

纏めると、「英会話に慣れること」と「英会話を豊かにすること」はどちらも「英会話が上手くなること」に必要なものだ。ただ前者は、「自分の英会話力を100として、その100の実力を出し切れるようになること」で、後者は「自分の英会話力を100から120に増やしていくこと」なのである。後者の段階に行くために、前者が必要だとも言える。個人によって英会話を学ぶ目的も動機も違うので、一概に「何が必要」とパッケージングするのは困難だが、壁に当たったときの一つの視点として参考になれば幸いである。

英会話における羞恥心

日本人が英会話を習得するうえで一番問題になっていることは何か。学校教育が矢面に立たされているが、僕は単純にそうは思わない。一番問題なのは、話す人自身の羞恥心である。

日本人の中で人前で堂々と英語を英語らしく口に出来る人がどれくらいいるだろう。これは発音が上手いからとか下手だからとかそういう話ではなく、「What is your name?」でも「How are you?」でもいいから、堂々と大きな声で口に出そうとしているかという話である。正直少ないはずだ。以前知人と国際線に乗っていたとき、その知人が「Coffee, please」と言うのを恥ずかしがって「コーヒープリーズ」と日本語の発音でフライトアテンダントにコーヒーを注文したのを覚えている。これは非常に日本人的な羞恥心の表れだとそのとき思った。
その一方で英語を母国語としない他国の人々の様子は違うようだ。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20060227/1140993395

でもちらっと書いたのだが、欧州人や南米人、中東人、アフリカ人や中国人はとにかく英会話に積極的だ。彼らは文法の間違いを恐れないし、発音にお国柄は出るものの、英語を英語らしく話そうとしている。なにより日本人と違うと痛感させられるのは、彼らは「恥ずかしがっていない」のである。これはとてつもなく大きい差のように感じられた。恥ずかしがる日本人は英会話をする機会をそもそも逃し易いので、単純に考えても他国の人間より上手くならないという結論になる。

羞恥心というものは英会話の問題に関わらず、日本人が文化として持っているものの一つであり、無くしていいものではない。だがインドや中国の経済的繁栄を尻目に、我が日本国の英会話のレベルを向上させたいと本気で考えるのなら避けて通れない課題の一つであることは間違いない。小学校でも英語を教えるか、という議論を定期的に見かけるが、その議論にこの羞恥心問題はおそらく含まれていないだろう。子供時代というのは羞恥心がまだ完成されていないので、上手くコントロールすれば英会話に関する羞恥心を作らせないことも出来るかもしれないが、逆に言えば一生物の羞恥心を醸成する可能性もあることは念頭においてカリキュラムを考えてもらいたい。特にただネイティブスピーカーだからって外国人の先生を招いても、彼らは日本人の子供の特質なんて知らないから、一生物のトラウマを植えつけるような授業をしてしまうかもしれない。そういったことを総合的に考えて、文科省の方々には英会話の問題に取り組んで頂きたいものである。

「話す・聞く」と「読む・書く」

「英語喋れる?」とか「英語が喋りたい」とか「現代人は英語くらい話せないと不味いですよ」とかそういう話をよく耳にする。特に四月には英語の勉強をしだす人がどっと増えるし、五月は海外旅行のシーズンなので、こういった話を聞く機会も増えてくる。
しかしあまり「英語読める?」とか「英語が書けるようになりたい」とか「現代人は英語くらい読めないとね」という話は耳にしない。何故なのか。理由を考えてみると、どうも以下の二点ではないかと思われる。

  1. 「英語は読む・書くより話す・聞くほうが大事である」とみんな漠然と信じている
  2. 「学校で文法ばっかり勉強してきたので、読む・書くは既にそこそこ出来ている」と考えている

1. について、個人的には英会話学校のマーケティング戦略が大成功した結果だと思っている。これ程社会に自社に有利な意識を根付かせた例を僕は他に知らず、「洗脳」と呼んでも過言ではないくらいに上手くいったのではないだろうか。これはこれで凄いことである。
だが本当に話す・聞くの方が大事なのだろうか。自分の頭で一度しっかりと考えてみる必要はあると思う。
例えば英語を話す機会はどれくらいあるだろう。外資系の企業に勤めていたりと、とてもたくさん機会のある人もいるとは思うが、大抵の場合はたかが知れているのではないか。僕は外国人の友達も何人かいるし(ほぼ英語圏の人間ではないが)、海外旅行にもそれなりに行っている。それでも一年に十日も英語を話している日はないと思う。ましては一日中話している日などない。そんなものだ。
一方、Amazonや旅先で洋書を購入して読んだり、ウェブでThe New York Timesを読んだり、洋楽の歌詞カード、ソフトウェアのマニュアルなど、英語を読む機会は結構身近にある。上述した外国人の友達ともメールで近況を交換している。少なくとも僕にとっては読む・書くが、情報の取得、人との交流という面から見て重要となっている。

2. は日本が偏った英語教育をしてきたことと、ときに誤った文法を交えながらどんどん英語で意見を述べてくる南米人や欧州人に対する劣等感の狭間で生まれた意識だと思う。実際僕が米国に留学をしていたときに、他国の留学生に対する「英文法での優越感」を持っている人間に出会ったりもした。
しかし日本人が文法が出来るというのも思い込みの部分があり、少なくともTOEFLの世界ではこれは事実ではないようである(Googleで「TOEFL 日本人 平均」で検索)。文法セクションの点数が、他国の受験生の点数よりも相対的に下回っているのである。
実際僕も受験英語は大分勉強したつもりの人間だったのだが、英語を米国で勉強していく中で、勘違いしていた文法、知らなかった文法がたくさんあった。「文法の勉強なんて今更やるの?」と思っていた僕は目の覚める想いだった。

僕は別に話す・聞くを軽視している訳ではない。ただ盲目的にそこに力点を置いている人を多く見かけるし、読む・書くの為の勉強は地味で忍耐力がいるのでどうしても避けられがちだ。ただそれでは大事なことを見逃す結果にもなり兼ねないので、しっかりと考えたうえで勉強に取り組んで頂きたいと思い、英語を先に勉強した人間として、一つの視点を提示させて頂いた。

「英語を使う仕事がしたい」と言う前に

英語を使う仕事がしたい、それを仕事を選ぶ基準にする人が相当数いると思う。特に英語の勉強がとても好きであったり、あるいは留学をしていた人なんかに多い意見だと思う。当時一生懸命学んだ英語、少しでもそれを活かしたい、僕も英語を闇雲に勉強していた時期があったので、共感を持つことが出来る意見である。
ただ少し考えて欲しいのは、大抵の仕事で英語を活かせる機会はあるということ。英語が使えることによって、自分の仕事の幅を拡げられます。例えば小学校の教員がアメリカの教育制度をアメリカ人から学んでも良いと思う。世界中にある素晴らしい物語を子供たちに伝える為に、洋書を読んだりしても良いと思う。それには当然英語が必要だろう。技術者なんかでも、最新の技術なんてものは大抵英語で発表されるものであるし、それらをいち早く学ぼうと思ったらやっぱり英語力が必要だ。デパートの店員でも警察官でも料理人でも、英語を学ぶことによって仕事に幅を拡げることは出来る。仕事に活かすことが出来るのである。
おそらく「英語を使う仕事がしたい」という意見の正体は「英語を使うことを強制される仕事がしたい」ということなんだと思う。就職観は様々だと思うし、どんな意見も否定する気はないが、「英語」という部分にこだわりすぎて本質を見誤ってしまう人が日本には多いように漠然と感じている。それが原因で何かの機会を逃すようなことがあれば、非常にもったいないことである。「英語を使う仕事がしたい」と言う前に、その気持ちの本質を少し掘り下げてみるべきだと思う。