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池田信夫「過剰と破壊の経済学」

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

梅田本も勿論そうだけど、ソフトウェアや通信など、所謂IT業界で活躍する若き人材や、将来それらの業界を目指している学生達にはこの「池田本」も是非読んでもらいたい。なぜかというと、この池田本で今僕らが属している世界というのはどういう世界なのか、どのように成り立ったのかを総覧出来るからだ。この池田本で自分達の属している世界の構造をしっかりと把握してから、梅田本を読んで夢や将来像を作り、それを達成する為の戦略を練ってほしい。
本書は「ムーアの法則」(他にもたくさんの「○○の法則」があるようですが)を中心とするメモリの集積度の向上、記憶装置の大容量化や通信の速度の向上などの急速さが、いかに今我々が属している世界のルールを破壊してきたのか、そして破壊していくのかについて書かれた、いわば現代のIT社会の生態を説明した図鑑の様なものである。著者はブログで有名な池田先生である。相変わらずの豊富な知識と筆力のおかげで、池田先生のブログの読者である僕にもつまらなさを感じさせることにの無い内容になっている。世界には色々な人間がいるとは思うけれど、個人的な意見ではここまで経済とITについてきちんと勉強している人っていないんじゃなかろうか。池田先生は技術も「そんな技術がある」程度の認識で終わらせず、その仕組みまで正しく認識しているところが凄い。ちなみに「メモリの集積度はなぜ上がっていっているのか?」、つまり「ムーアの法則はなぜ成り立つのか」については非常に本書が勉強になりました。技術畑にいるのに知らない技術の話が多く、それについては自分を戒めたい。
最近ウェブ・リテラシーが話題になったけれど、ウェブをはじめとするこのところの技術革新は我々労働者間の生産性を大きく向上させている(生産性の向上というよりは、コストの低下と言った方が良さそうだが)。逆に言えば、その流れについていけなければ皆に大きく置いてきぼりをくらう社会になってきているということである。ここまでコストを下げてくれる技術が溢れているのに、それを利用せず、いつまでも旧来のやり方に頼っている上の世代を見るともどかしく思うが、自分も下の世代からそう思われないよう、常にこの流れを監視していく必要があるだろう。それこそ池田先生の様に勉強していきたい。そういう話だ。

山本博「フランスワイン 愉しいライバル物語」

フランスワイン 愉しいライバル物語 (文春新書)

フランスワイン 愉しいライバル物語 (文春新書)

こういうワインの楽しみ方というのは、もしかしたら競馬の楽しみ方と似ているのかもしれない。どの馬とどの馬がライバルであるとか、そういう関係はまあ我々が勝手に決めていることである、がそういう関係を仮定すると、レースが非常に愉しくなる。競馬にはずいぶんはまった時期があったが、そういう関係を見つけ出すごとにはまっていったという記憶がある。
本書は弁護士であり、世界ソムリエ・コンクールの日本代表審査員も務める山本博氏によるフランスワインの解説書である。功名にフランスの有名ワインを二つ一組で、つまりライバル関係にしたてあげて(勿論生産者の方やファンの方には強いライバル意識を実際に持っている方も多いと思うが)紹介している。氏はめっぽうワインには詳しいし、それにまつわる料理や歴史、地理の知識も驚くほど豊富なので、ワインファンにとってだけでなく、フランスという国のファンにとっても非常に面白い内容となっている。はっきり言って、読んでいると喉が渇くし、おなかが減ります。
それにしても山本氏、彼よりワインに親しんでいる日本人って居るのだろうか。うーん、今度フランスに行くとき、僕も連れて行ってほしいです。本気出してそう思いました。

村上春樹「スプートニクの恋人」

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

本書を読んだということは、村上春樹氏の長編小説は一応全部読んだ事になる。「村上春樹ファンなの?」と問われるといつも「いや、違うよ」と答えきた様な気がするが、世間的には僕のような立場の読者は一応「ファンだ」と言っておいた方が適切なんじゃないかと思う。あくまで言動が一致していることがすばらしいことだという価値観の中の話だけど。
小説や文学作品の記録を付けるのは難しいが、このスプートニクの恋人も非常にここに何を書いたらいいのかを迷ってしまう作品であったと言える。個人的には「また居なくなる系か」という感想が一番単純な感想である。我々人間は誰かの不在によってその人間の存在を一番確かめることができるという生き物なので、ある人間が居なくなるという現象は、人が人と向き合っていく上で非常に、こういっては誤解があるかもしれないが、有意義なチャンスであると言えると思う。この作品でもすみれという女性の不在により、主人公やミュウと呼ばれる女性はすみれの存在を感じ、またそれは自分という存在を感じることにも繋がっていったであろう。
Wikipediaの「スプートニクの恋人」に以下のような記述があった。

この小説は村上自身が語るように、彼の文体の総決算として、あるいは総合的実験の場として一部機能している[要出典]。その結果、次回作の『海辺のカフカ』では、村上春樹としては、かなり新しい文体が登場することになった。

スプートニクの恋人 – Wikipedia

しかしながら、その「実験」が何であるのかを僕に読み取ることは出来なかった。「海辺のカフカ」を読み返せばあるいはその内容が分かるのかもしれないが、今のところその予定はない。小説や文学は、よほどのことがない限り読み返さないようにしている。その「よほどのこと」は極めて個人的な「よほどのこと」であることが多いのはまあさておき。
ミュウは魅力的な女性であるように描かれていたし、僕も彼女を魅力的な女性であるように想像した。が、ひとつ疑問に思ったのが「性欲という機能を失った人間が、果たしてどこまで異性としての魅力を放つ事が出来るのだろうか」ということである。性欲を失った人間が異性を強く惹き付けるようであれば、それは我々の動物的能力の低下を意味するであろうし、生命としてではなく、「人間」としての特有の魅力とは果たしてなんなのであろうか、という疑問に答えを出す為のひとつのヒントになりうる。そうではないだろうか。

猪浦道夫「語学で身を立てる」

語学で身を立てる (集英社新書)

語学で身を立てる (集英社新書)

「語学を勉強しよう」と思う方は是非読んでほしい。いや読みましょう。「語学で飯を食っていこう」という人にも勿論読んでほしいけれど、僕としては「語学を勉強しようと思っているけど、英会話学校とかに通わないといけないのだろうか」と考えてて、かつ知的レベルは高めだという方にこそ読んでほしい一冊。
経営破綻した英会話学校をはじめとした英会話学校のマーケティングの効果と、我々日本人の大多数が持っている欧米人へのコンプレックスのおかげで、日本の英語勉強感はまったくもって狂っていると思う。これは受験英語が間違っているとかそういう話を超えて、何の資格もない米国人の主婦のお小遣い稼ぎに高いお金を出して英会話を習いにいってしまったりとか、大学を出たばかりの適当な外国人を見繕った英会話学校に通ってしまうだとか、そういう「語学を勉強する事」に関する人々の思慮の浅さは多分とんでもないことになっている。きつい言い方のようだが僕はそう思っている。
誤解のないように言っておくが、本書はそういった世の中を批判している本ではない。ただまじめに、誠実に「語学でやっていくとはどういうことか、その為には何が必要なのか、語学で食っていっている人間はどういう人たちなのか、どうやって就職するのか、どうやって勉強するのか」といった事を書かれている。そしてこれらの情報は、「語学でやっていこうとまでは考えていないけれど語学を勉強したい」と考えている人間にもかなり有効なものである。是非一度読んでいただきたい。

寺本義也、山本尚利「技術経営の挑戦」

技術経営の挑戦 (ちくま新書)

技術経営の挑戦 (ちくま新書)

正直に言うと、記録を付けるほどしっかり読んでいないのだが、言いたいことはある程度掴んだつもりである。まず目次だけ並べると以下の様になっている。

  • 技術経営、第三の道
  • 技術経営についての基本認識
  • 日本型技術経営の栄光と転落
  • 米国型技術経営の成功と曲がり角
  • アジア発のグローバル技術経営の提言
  • 技術経営の担い手たち

すごく簡単に要約すると「70、80年代の日本の技術企業は成功したのに90年代は駄目だったね。90年代はアメリカがすごく技術経営がうまくいっていたよ。それを取り入れつつ、次の世代の技術経営を考えないといけない。日本が駄目だった結果として青色発行ダイオードとかフラッシュメモリーの発明者とか米国に流れて行っちゃってるわけだし、もっときちんと考えないと勝てないよ」という感じだろうか。
技術の経営というのは理論としてしっかりと学者さんたちに研究してもらいたいと思う一方、そういったメソッドだけを持った人間が現場に入ってくるのはエンジニアとしては恐怖だな、という感想を持った。最もこの本を読む限りでは、技術というのはまだまだハードウェアを相手にした言葉であり、ソフトウェアの開発や研究のマネジメントというのは対象外にされていた感があるのだけど。

魚住昭「野中広務 差別と権力」

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

再び魚住昭氏の著書に手を出した。この間村上春樹氏の作品を一気に読んだときもそうであったが、どうも僕は気になる著者が現れると、その人の書いた本を飽きるまで読みたくなる傾向の持ち主らしい。とりあえず本作品を読んだ時点では魚住氏には飽きていないと思うので、次も彼の著作に手を出すかもしれない。もちろん予算と時間の範囲の中で、であるが。
本書は政敵を叩きつぶす策謀家として永田町で恐れられた政治家、野中広務氏の生い立ちからその政治生命が閉じられるまでを追ったルポタージュである。野中氏はその出自によって多くの困難を乗り越えてきたようであるが、こう言ってしまっては何だが、彼の人生を傍観する立場、つまり本書の読者にとっては非常に興味深い部分であるというか、政治家野中広務の核のようなものがいかにして形成されていったのか、それを考える上での大きな材料になっている。
また本書で非常に面白い部分であると僕が感じたのが、魚住氏は単なる傍観者としてではなく、野中氏を取材していく上で彼と野中氏の間に生まれたある種の空気というか、確執というか、そう言ったことまでを本書に余すことなく記していることである。つまり、魚住氏も野中広務という政治家の人生の物語を紡いでいるだけではなく、そこに自らも出現することにより、本書をいっそう刺激的な内容にすることに成功している。僕はそう感じた。
最後には佐藤優氏との対談が掲載されている。最初は「なぜ佐藤氏が?有名だからか?」と疑問に思っていたが、どうも野中氏と鈴木宗男氏は切っても切れない関係にいたというか、野中総理、鈴木官房長官というシナリオが一部では動い佐藤氏は相変わらず様々なことに詳しいようだった。

森田実「自民党の終焉」

自民党の終焉―民主党が政権をとる日 (角川SSC新書)

自民党の終焉―民主党が政権をとる日 (角川SSC新書)

こ、これはひどい。今まで読書をしてきてあまり「ひどい本だ」とかそういう感想を持ったことがなかった記憶があるけれど、本書はどうにも僕には理解しがたい類の本である。
本書は政治評論家の森田実氏による自民党支配政治の終焉を予測した内容であるが、いかんせん完全に著者がバランス感覚を失っているので、「いかに小泉政治(特に経済)が駄目だったか」、「いかに小沢民主が素晴らしい可能性を秘めているのか」という内容をとうとうと、しかもあまり客観的とは言えない事実を根拠としてひたすらと繰り返している、という内容である。民主党を個人的に応援されるのは全然構わないのだが、自民党が参院選で大敗し、安倍総理が混乱のさなか辞任したことに乗じて、長年の溜飲を下げるかのような記述が目立つのはなんとも読んでいてかなわない。おそらく僕が森田氏とまったく同じ思想を持っていたとしても、このような著しくある一方の立場に有利なことばかりの記述で満足することはないと思う。
ある一部分だけを抜き出して、「ほら、こいつは変なこと言っているだろ」と言うかのようなやり方は嫌いであるが、以下の部分はどうしても気になったので抜粋したい。
pp.167

「従軍慰安婦は歴史的事実に反する」と言う者がいたら、その人は戦争のことをほとんど知らない人である。そうでなければ異常な人である。戦時中を知る者なら従軍慰安婦について軍の関与はなかったなどという無神経な話はとうていできないであろう。具体的な政府文書があるかないかは、どうでもよい問題である。

うーん。森田氏は本書でも述べているとおり玉音放送時点で中学一年生であったようなので、私の個人的な意見では戦前の人間と言うようりは戦後の人間だと思うが、どうにも戦争経験者と非経験者を区別したいのだろうか、このようなことを書いている。あと「関与があった、なかった」というのはちょっと論点とずれているんじゃないかと思うが、軍の施設だったんだから何かしらの関与はあって当たり前というか、論点は強制性にあったはずだと思う。「具体的な…」の部分はもうあまり突っ込まないとして、とにかく森田氏は小泉政権や安倍政権が行ってきた色々な事に、とにかく文句をつけて小沢民主の素晴らしさを訴えかけているのだけれど、バランスを欠いているばかりに上記の様な文章を書くまでに至ってしまった、というのが僕のおおまかな感想である。この本の内容だけで著者のバランス感覚を決め付けたくないので、公平な立場から日本の政治を分析したような著書でもあれば再度読んでみたい気はする。

渡辺明「頭脳勝負」

頭脳勝負―将棋の世界 (ちくま新書)

頭脳勝負―将棋の世界 (ちくま新書)

とりあえず「将棋をちょっと観戦してみたいな」と思ったので、渡辺竜王の試みはある程度僕には効いたということだと思う。
本書は竜王の位でおなじみの、渡辺明氏による将棋解説本、及び将棋観戦方法解説本そして、棋士解説本です。この紹介で分かるとおり、新書ながら結構色々な情報が詰め込まれていて、将棋を様々な角度から、言ってみれば「将棋という世界」を紹介している様な本である。どちらかというと、「将棋ってルールはまあ知ってるけど(ちなみにルールも本書で解説されています)、なんか観戦したり指したりする気はなくてねぇ」という僕みたいな人間に向けて書かれている本である。
竜王は意図的に「居飛車」、「振り飛車」、「穴熊」など専門用語を多く使い、そしてそれらの意味合いを解説することにより、我々に「まず形から将棋に入ってみなよ」というメッセージを送っているものと思われる。僕はスポーツ観戦にはほとんど興味はないのだが、友人達が野球やサッカーの談義をしているのを聞いていると、確かにプロ並みに戦術とか戦法に詳しかったりする。彼らはそれを実践できる訳ではないのだが、そういう知識を元にスポーツ観戦を何倍も楽しいものにしている。そういう人々を将棋の世界にも増やしたい、それが竜王がこの本に込めた願いだろう。
ただひとつだけ思ったのが、トップクラスが何千万単位の賞金をもらえる将棋は、少なくとも既にある程度のファンがいるものと思われる。比べてどうこうという訳ではないのだが、例えばこれがバスケットボールだったりすると、今でこそプロが少しずつ注目されてきたりしているが、それでも国内トップクラスのバスケットボールプレイヤーでも、年収は一千万に届くか届かないかというのが現状だろう(スポンサー等がつけばもっともらえるだろうけど)。それを思うと、少し渡辺竜王の試みは欲張りな気がしないでもなかった。あくまでも、単純に比べられる話ではないのだが。

魚住昭「特捜検察の闇」

特捜検察の闇 (文春文庫)

特捜検察の闇 (文春文庫)

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070912/1189549821で紹介した「官僚とメディア」と同じ魚住氏による本書は、この日本で起こっている司法の腐敗を抉り出したもの。相当に読み応えがありました。
著者は本書で語っているように、以前は特捜検察のファンだったという。特捜検察 (岩波新書)という前著は特捜検察の活躍を描いたものであるようだ。しかしその著者が今度は検察、そして司法全体に蔓延る腐敗の構造に光を当てることになった。日本の司法にどんな変化があったのか、そしてこれからどう変わっていくのだろうか。そういったこと深く考えさせられる内容である。
本書は基本的には二人の弁護士、一人はヤメ検(検察を辞めて弁護士に転じた人)の田中森一氏。田中氏は検察時代はピカピカの正義の検事という感じだったというようだが、自己の中に生まれた矛盾を解消できず、弁護士に転じ、その後裏社会の有能弁護士として数々の裏社会の大物との関係を持つに至った。非常に興味深いエピソードである。
もう一人は人権派の弁護士として有名な安田好弘氏である。彼はバブル後の「不良債権回収」という国家の大きな動きの中で生まれた生贄のひとりとなり、検挙され、特捜検察との対決に至っていく。魚住氏が描く安田氏側弁護団と検察の闘いは息を呑むものがあった。
とまあ素人ながら宣伝してみた感じになりましたが、要は非常に面白いのでお薦めです。また今後は陪審員制度などで法律(というか法廷)と関わる機会が我々民間時にも増えてくる訳なので、それに備えた準備としても良いかもしれません。

白州次郎「プリンシプルのない日本」

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

日本国憲法成立に関与したことや、その痛快な人柄で著名な白州次郎氏が文藝春秋に散発的に書いていたと思われる文章をおそらくひとまとめにして書籍という形に纏めたもの。
なるほど言っていることは痛快だし、非常に納得も出来るし好感も持てる。経済の問題に対しても、素人ながら(とご自身で仰っている)本質を突くような発言も多く、戦前と戦後の違いをきちんと認識して、守るべきでない産業はもう守るなといったような強気な発言には惹きつけられるものがある。しかし反面、この人はもし上に立ったとしてもそのような改革(のようなもの)を断行することは出来ないだろうな、と感じた。あまりにも優しすぎる気がするからである。改革の裏側で涙を流す旧来型産業の中でしか生きていけない不器用な民衆を、とてもじゃないが「改革の犠牲となってくれ」とばかりに見捨てることの出来ない人柄であろう。犠牲のまったくない形で物事が進化していけばそれ程嬉しいことはないのだろうが、中々そうできないからこそ、政府や財界や我々一般人も旧来型の物事にしがみついてしまうのだろう。
白洲氏は非常に先見性があったというか、太平洋戦争の勃発やその敗戦について最初から読んでいたというのもあるが、戦後に日本国民そのものに対しても「反省せよ」と促しているところはさすがと思う。軍部や政府に敗戦の責任を押し付けて自分が楽になることを考えず、これからの日本人のために、まずは自分達が反省する。そんな風に考えられる人っていうのは、当時はどれほどいたのであろうか。無論、兵隊に出された人々や戦火から命からがら逃れた人と白洲氏では、見てきたものがかなり違う可能性もあるが。