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魚住昭「官僚とメディア」

官僚とメディア (角川oneテーマ21 A 62)

官僚とメディア (角川oneテーマ21 A 62)

タイトルが好みだったこともあり、書店で見かけて即購入。読んでみると思った通り好みの内容だった。

著者は元共同通信社の記者であったようだが、共同通信社時代、また退社後に独自に取材を進める中で気付いた「権力を監視する役割であるはずのメディアが、以下に行政や立法と結び付いているか」について本書で述べている。事例も例えば姉歯元建築士の耐震偽造問題や、ライブドア事件、陪審員制度導入、NHK-朝日新聞問題など近年起こった(起こっている)有名な社会問題ばかりなので、誰でもすんなりとその腐敗構造を理解することができると思う。
個人的な感想としては、あまり僕がマスコミに興味がないのもあるが、この程度の腐敗構造はまあ当然あるんだろうな、と読後に妙に納得してしまった。普段からあまり深く考えている訳でもないけれど、「権力の監視機関としてのマスコミ」なんていうのはおそらくどの世界にでもある「まあ理想を言えばそうなんだけど、現実を見ろよ」的な看板ではないかと思っているし、マスコミがそのようにあるためには、結局我々読者のレベルが高くないといけないわけだ。そうそうそこまでのレベルで記事を読んでいる人間など多くないだろう。だからやっぱり腐敗していくんだろうな、というのは感覚で理解できる。そういう意味では本書に驚きはなかったが、まさか司法と電通が手を組み、司法にとって有利な世論を醸成しようと企んでいるとは思わなかった。それは驚き。
本書を読んで一番感じたのは、著者の、そして文章の中に出てくる現場の記者達のプライドである。会社が大きくなり、素晴らしい記事を書くことでなく、権力に迎合した記事を書くことの方が社の利益となるという上の判断が出始めても、やはり現場の記者達はプライドを持って取材し、プライドを持って記事にしているのである。幸い今はインターネットの時代であるので、その記者達のプライドが、ボツという形で闇に葬られるのではなく、新聞や雑誌とは違った形で我々の元に届くことを期待したい。

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

各地で話題になっているので購入してみたが、これが滅法面白い。最近の僕の傾向として、理系の大学教授が書いた新書を好むのだが、これもまさにそんな一冊。なんと言うか、その一冊が自分を知的な旅へと誘ってくれるような、そんな独特な感覚を味わうことが出来る。「書籍にはやはり知的興奮がなくては」という方でまだ読んでいらしゃらない方、是非ご一読をお勧めします。
本書は「生物とは何か」という根源的な問いに対して著者自身が答えを出そうとしたその経過を記したものである。我々は普段そのような問いかけをすることはあまりないが、「生物」と「無生物」というものを無意識のうちに判別しているし、何かをその境界に見てとっているはずである。それは一体なんなのか?それを追っていくのが本書のテーマである。
しかしながら、何故か大学の教授というか研究者達による、研究の成果を巡る競争ばかりが頭に残ってしまった。研究の世界では一番最初に発見した人にしか栄誉は与えられず、二番目以降の人には価値はないらしく、一番を巡っての激しい競争があり、特に卑怯な画策もある。確かに世間からの評価という意味ではそうかもしれない。グラントを得ないと職を奪われる教授たちによっては死活問題なのかもしれない。しかし彼らは純粋に知的好奇心に掻き立てられて研究を続けているのではないのだろうか。知的好奇心を満たすことは、二番目の発見者には出来ないのだろうか。そんなことはないのではないか。
プログラムの世界にも「車輪の再発明」という言葉がある。僕は別に車輪の再発明でも構わないと思っている。先人が達成したことをなぞるだけの行為にはそれなりに意味があるはずだ。再発明中の時間は無駄にはならない。それに再発明をすることで、その発明品に対する新たな代替案や改善案が生まれるということもあるのではなかろうか。確かに車輪の再発明ばかりしていては何事も前には進まないが、その言葉が何かの行動の足枷になるようではいけない、そのように思う。

コンラートローレンツ「ソロモンの指輪」

ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF)

ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF)

動物行動学の始祖(らしい)であるローレンツ教授による、動物への好奇心と愛情に溢れた一冊。あまり興味のある分野ではないのだが、http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070721/1184982777で紹介した鈴木宗男氏と佐藤優氏の対談の中で、佐藤氏がインテリジェンスの教育の参考になる本として
挙げていたのをきっかけに購入してみた。
この本を読んでつくづく思うことは、まあ当然と言えば当然であるが、我々は彼ら動物の一員であるということである。彼ら動物が時々「まるで人間みたい」な行動を見せることがあるが、それは考え方が逆であり、ただ我々が彼らと同じ特性を持っているだけのことである。そういう話は本書に色々と出てくるが、「ボスの妻となったメス鳥の態度が急に大きくなり、周りの者に強気な態度を見せるようになった」というエピソードは強く印象に残った。まさに我々と一緒。いや、我々が一緒。

ジョージ・ポリア「いかにして問題をとくか」

いかにして問題をとくか

いかにして問題をとくか

結論から言うと数学を学ぶ者だけでなく、働く人は一度は目を通す価値ありだと思う。
本書はポリア教授により、数学の問題を解くに当たっての考え方の手順や方法を学生にどの様に教えるか、という目的で書かれたものである。が、どんな数学の問題にでも当てはめることが出来るように、その手順は十分に抽象化されている為、数学を超えて、色々な物事の問題を解決するときにも使える内容になっている。一度は目を通しておき、ポリア教授の言葉を頭に刻んでおくと有意義だと思う。
正直本書は大分前に購入したのだが、日本語の表記が若干古めなことと、独特の内容にいまいちついていけず、ずっと本棚にしまってあったのだが、今回久しぶりに取り出してみると名著であることが分かった。それだけ自分が成長したのではないかと思う。
ただし記述は非常に冗長。1ページ目と最後のページにポリア教授の手順を整理した表(リストと呼ばれていたが)が載っているのだが、中身は延々とこのリストの内容が繰り返されているので、このリストをまず頭に入れ、続いて最初の何十ページかを読めば、後は飛ばし読みでも構わないと思われる。

イアン・スチュアート「若き数学者への手紙」

若き数学者への手紙

若き数学者への手紙

凄く面白く読めた。数学系の読み物が好きな読者だったら楽しめるだろうと思う。
タイトル通りなのだが、本書はおそらく老齢の、そして数学者としての経験が豊かなある教授が、これから数学者への道のりを歩み始めようとしている「メグ」という架空の若者に対して送った手紙、という形式になっている。メグは大学で数学を専攻し、大学院に進み、やがて数学者としての職を得ていくのだが、その要所要所でこの教授からの手紙を受け取っている。我々はそれを読むわけだ。
手紙は全部で21あるのだが、全てが教授の数学への愛で溢れている。数学とはどんなものなのか、証明とは何か、数学が何故素晴らしいのか、世間が如何に数学を誤解しているか、数学者とはどんな職業なのか、大学で数学をどの様に教えていけばいいのか、そして数学は何をどの様に学んでいけばいいのか、などが手紙の内容である。別に数式が出てくる訳ではないが、手紙の内容は知的興奮を掻き立てるものがある。
この本は2007年出版なので、例えばインターネットなんかも話題の中に平気で出てくる。この手の本は内容が時代に即してないことが多いイメージがあるのだが、本書は大丈夫。
この教授からメグに何冊かの書籍が紹介されていたので、今度はそちらを読んでみようかな、と思っている。

鈴木宗男、佐藤優「反省」

反省 私たちはなぜ失敗したのか?

反省 私たちはなぜ失敗したのか?

話題の二人(と言っても一昔前の出来事の感があるが)による対談を書籍化。二人が赤裸々に自分達の犯した過ちを反省し、我々読者の今後の生活の糧としてもらいたいという内容になっている。反省とは言っているものの、本の端々には外務省への批判が含まれている。外務省がこれほど○○だと思っていなかったとか、そういう内容の反省が続く。ちょっと冗長な内容になってしまうかと思われたが、そこは二人の経験や見識によってフォローされているというか、全体を通して面白く読むことが出来た。
しかし彼らの批判の的になっている外務省だが、彼らの話が本当であるという立ち位置から考えれば、国民全体で真剣に批判するべきであろう。僕は多少外務省員が税金で遊んでしまってもある意味しょうがないというか、そこまで監視することは出来ないと思っている(監視しだすと余計にコストがかかるのではないかとも思っているが)。しかしながら、外交官や大使というのは我々日本人と他の国との人間のいわばインターフェースになる人間である。ここに十分な能力を持ち、人間的魅力に溢れた者を配置できないとしたら、それこそ国益を損ねる。ソフトウェアの世界では、インターフェースだけは少なくともしっかり設計しなくてはならない。そこさえしっかりと設計できていれば、中身は後から何とでも修正が聞く。外交の世界にも似たようなことがあるのではないか。
とまあ素人意見をくだくだと述べたけれど、基本的に佐藤優氏のファンなので楽しく読めた。対談の中でいくつか気になる書籍を佐藤氏が挙げていたので、さっそくAmazonで注文してみようかと思う。こういうとき、便利な世の中になったと実感する。

吉田武「あの無限、この無限、どの無限?」

あの無限、この無限、どの無限?―数式のない数学の話

あの無限、この無限、どの無限?―数式のない数学の話

色々なテーマ(数学とは直接関係のないもの)を題材に、無限を読者に理解し、楽しんでもらうための小話18話から本書はなっている。内容は徹底的に無限に照準を絞っているので、無限について慣れ親しんでいる人には冗長ではないかと思われるが、例えば中高生などこれから無限について学ぼうかという人達にはイントロダクションとしてお奨めできる。往々にして日本の教育現場では、それが何かという話は置いておいて「ぽっ」といきなり新しい概念が出てきてしまいがちなんじゃないかと思う。そうすると学ぶ側としてもあまり興味を持てず、言わば丸暗記の対象としてしかその概念を見れないというような状況に陥りがちである。その辺の隙間を埋める良い題材ではないだろうか。

正高信男「考えないヒト」

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

考えないヒト – ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

著者にはかなり申し訳ないが、正直に感想を述べると、若者に対する鬱憤が溜まっている年配の方が溜飲を下げる為に読む本の様に思えてしまった。
確かにケータイに代表されるIT技術の進歩は我々を、特に若者を大きく非文化的、非常識、非人間的な存在へと変えていっている面はあると大いにあると思う。ケータイやネットに依存し、コミュニケーションも上手く取れず、キレやすかったり家族とも良い関係が保てていなかったり、そういう若者は多いだろう。そして考えない人間が増えているであろう事も感覚としては納得する。もちろん僕はまだ30年も生きておらず、過去がどうだったかなど肌では知らないが、まあ一昔前は今よりも色々と考えなければならないことが多かったのは事実だろうと思うし、我々や我々より若い世代の人間が、IT化により節約できた時間を何か他の事に有効に投資しているかと言われれば、まあほとんどの人間はしていないだろう。
しかしこういう話を読んだり聞いたりすると必ず思うのだけれど、例えば電話が無かった時代の人間は、電話が当たり前の世代の人間よりも(例えば)考える人間なのか。郵便システムが無かった時代、自動車が無かった時代、印刷技術が無かった時代、飛行機が無かった時代、電気が無かった時代、果ては言葉が無かった時代はどうか。昔は良かった的な意見を言う場合には、必ず今語ろうとしている「昔」よりも昔の話を考慮してからにしてもらいたい。近年のIT化だけが人類が今まで歩んできた技術の進歩の中でも特別な存在だというのであれば、その根拠も示してもらいたい。
あと枝葉に突っ込むようだけれども、第四章の「文化の喪失」にて「ルイ・ヴィトンが売れているのは商品が良いからではなくて、マスコミに取上げられているし、皆が持っていていて自分が持っていないとつながりを保てないからだ」、「ハリーポッターが売れたのは外国で評判になったから」と主観で決め付けているのにも関わらず、その直後に「「バカの壁」が売れたのはタイトルが注目されたのがきっかけだけど、その真面目な内容が受けた」と日本人の同業者には妙なフォローを入れている。「「蛇にピアス」も「名作だけど、本来ならばあまり売れそうもないのに売れた」」とも言っている。完全に主観と事実を混同している。「バカの壁」と「蛇にピアス」は内容的にも良いのだけれど、ルイ・ヴィトン(多分ハリポタも)は良くもないのに皆踊らされて買っている、ということらしい。別に著者がヴィトンが嫌いならそれはそれで良いのだけれど、こんな書き方では若者に説教する為に都合が良いからルイ・ヴィトンを担ぎ出したおっさん、という構図にしか見えない。昔、若者の長髪が嫌いな中年の男性が、長髪の若者が風邪をひいたときに「君はそんなに長髪だから風邪なんかひくんだ」と無茶な理論を展開していたのを聞いたことがあるのだが、それと似たような印象を受けた。

ティム・オブライエン「世界のすべての七月」

世界のすべての七月

世界のすべての七月

訳者(村上春樹氏)のあとがきに「今の若い世代の人がこれを読んだらどのように感じるのか知りたい」という様なことが書いてあったのだが、正直言うと1969年という時代を知らない僕にとっては、この同窓会の空気、この同窓会に集まった人間の考えなど、どれもしっくりこないことばかりだったように思う。しっくりこなかったから小説が面白くなかったとか、面白かったとかそういう話ではないのだけれど、全体としてはあまり楽しめなかった。
ただ小説の技巧的には面白く感じたのだが、長編小説の様でもあり、短編小説の様でもありというつくりになっている。僕はそんなに読書経験があるほうではないが、こういった作りの小説は初めて読んだ様に思う。
さて、この同窓会のメンバーに対する1969年の様な年が我々にもあるのだろうか。可能性としては2001年かな、と思った。衝撃的な事件があったし、あの年に我々の世代は社会に飛び出したのだ。従って一番印象的な年となっている可能性は高いかもしれないとぼんやり思った。

マイケルルイス「ライアーズ・ポーカー」

ライアーズ・ポーカー―ウォール街は巨大な幼稚園

ライアーズ・ポーカー―ウォール街は巨大な幼稚園

著者の作品は以前にニュー・ニュー・シングマネー・ボールと読んでいたので、正直言うと本書には違和感を感じたというか、「あ、こういうモノ書いてデビューしたんだ」的な印象を持った。カッコいい女性シンガーのデビュー曲がアイドル丸出しの歌と歌い方だったときに感じるアレだ(って分からないか)。
著者がソロモン時代にかなりの成功を収めていたという事実には単純に驚いた。その様な人がそうそうと物書きに転身するという構図は珍しいであろうと思っていたから。まあ駄目駄目だったんだろうと思っていた訳ではないのだが。
僕は投資銀行をはじめとして、金融なるものにあまり興味がない。まあ金融と言っても幅広く、一纏めにすること事態が批判の対象にもなりかねないが、あえて一纏めにして興味がないと言っておく。金融業界に従事している人を批判する気もまるでないし、それなりに大きな社会的意義を持った仕事でもあると思ってはいるのだが、やはり僕が求めている種類の価値の創造をしていない業界だという想いがある。繰り返しになるが金融と言っても幅が広いし、例えばGoogleだってAppleだってお金を出してくれる人間がいたからあそこまでの価値を創造できたことは間違いない。それは確実。でもまあだから興味が出るかと言われれば出ない。まあ僕はあまり勝ち負けに興味がなく、さらに大雑把な性格だし、数値的な能力もそんなにないのでとても投資銀行でやっていくことなど出来なさそうだが、まあ大抵の集団がそうであるように色々な人間が投資銀行にもいて、僕が今上げた条件を全て満たしているにも関わらず大成功を収めている人間もいるだろうけども。