村上春樹、柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

キャッチャー・イン・ザ・ライを読んだので、ようやく本書を読むことが出来た。あまり本は本棚に眠らせておく方ではないので、それなりに本書のことが気がかりだった。読み終えてすっきりしている。
前作の翻訳夜話とは違い、本書はあくまでサリンジャー、もっと具体的に言えばキャッチャーについて村上、柴田、文藝春秋編集部が語り合うという内容である。巻末にはキャッチャーには掲載することが出来なかった訳者あとがきが掲載されているので、村上訳のキャッチャーを読んだ方はまずこちらも購入していることだろう。*1
本書の感想を書くとキャッチャーの感想になってしまいそうなので気をつける。

—–



まず一点気になったのが、キャッチャーの原著について村上さんがべた褒め、特に(専門的なことは分かりそうにありませんが)文章の技巧的な部分については完璧とまで言っていた様な気がする。それ程の文章であれば一度原著で読んでみたいと思うが、若干古めの英語に僕の英語力が付いていけるかどうかは微妙なところ。
またサリンジャーという作家自身がどの様な人間であったのか、という前提知識は僕にはまったくなかった為、そこらへんは意外と興味深かった。イノセンスというのがキャッチャーの大きなテーマであるのは間違いないのだろうけど、それがサリンジャーその人にとってもまさに人生を欠けたテーマであったということには驚きを覚える。素人から言わせてもらえれば、作家とはあくまで現実の世界にしっかりと片方の足を置きながら、もう一方の足で非現実な世界を作り上げるものだと思っていた。しかしサリンジャーという人にとって作品を書くことは、例えば日記を書くことや日々の生活に必要とされる文章を書くこととどこまで違いがあったのだろうか、そんな疑問すら持った。
村上さん、柴田さんの話を聞いていると、「そこまで言うか」と突っ込みたくなるくらいキャッチャーを深いところまで追求し、解釈し、自分なりに咀嚼しようとした後が伺える。他の読者のことを決め付ける訳にもいかないが、僕の感覚で言えば、正直一般人の我々は彼らが持つような感想は持ち得ないだろうと思う。彼らは言わば深入りしすぎな人間である。拾いすぎ、というかおそらくサリンジャー自身だってそこまで考えてなかったんじゃなかろうか、というところまで読み取っている気がする。繰り返すが我々はそこまで出来ないと思う。多分それが出来ないと、作家や翻訳家になんてなれないんだろうけど。あ、こういう何かを制限したり限定したりする様な物言いはあまり良くないかな。

*1:村上春樹訳の書籍はあとがきがひとつの楽しみと化している感がある。彼の筆力があるから成せる技なのであろうか。