二十代は模索のときブログ」カテゴリーアーカイブ

鈴木宗男、佐藤優「反省」

反省 私たちはなぜ失敗したのか?

反省 私たちはなぜ失敗したのか?

話題の二人(と言っても一昔前の出来事の感があるが)による対談を書籍化。二人が赤裸々に自分達の犯した過ちを反省し、我々読者の今後の生活の糧としてもらいたいという内容になっている。反省とは言っているものの、本の端々には外務省への批判が含まれている。外務省がこれほど○○だと思っていなかったとか、そういう内容の反省が続く。ちょっと冗長な内容になってしまうかと思われたが、そこは二人の経験や見識によってフォローされているというか、全体を通して面白く読むことが出来た。
しかし彼らの批判の的になっている外務省だが、彼らの話が本当であるという立ち位置から考えれば、国民全体で真剣に批判するべきであろう。僕は多少外務省員が税金で遊んでしまってもある意味しょうがないというか、そこまで監視することは出来ないと思っている(監視しだすと余計にコストがかかるのではないかとも思っているが)。しかしながら、外交官や大使というのは我々日本人と他の国との人間のいわばインターフェースになる人間である。ここに十分な能力を持ち、人間的魅力に溢れた者を配置できないとしたら、それこそ国益を損ねる。ソフトウェアの世界では、インターフェースだけは少なくともしっかり設計しなくてはならない。そこさえしっかりと設計できていれば、中身は後から何とでも修正が聞く。外交の世界にも似たようなことがあるのではないか。
とまあ素人意見をくだくだと述べたけれど、基本的に佐藤優氏のファンなので楽しく読めた。対談の中でいくつか気になる書籍を佐藤氏が挙げていたので、さっそくAmazonで注文してみようかと思う。こういうとき、便利な世の中になったと実感する。

吉田武「あの無限、この無限、どの無限?」

あの無限、この無限、どの無限?―数式のない数学の話

あの無限、この無限、どの無限?―数式のない数学の話

色々なテーマ(数学とは直接関係のないもの)を題材に、無限を読者に理解し、楽しんでもらうための小話18話から本書はなっている。内容は徹底的に無限に照準を絞っているので、無限について慣れ親しんでいる人には冗長ではないかと思われるが、例えば中高生などこれから無限について学ぼうかという人達にはイントロダクションとしてお奨めできる。往々にして日本の教育現場では、それが何かという話は置いておいて「ぽっ」といきなり新しい概念が出てきてしまいがちなんじゃないかと思う。そうすると学ぶ側としてもあまり興味を持てず、言わば丸暗記の対象としてしかその概念を見れないというような状況に陥りがちである。その辺の隙間を埋める良い題材ではないだろうか。

正高信男「考えないヒト」

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

考えないヒト – ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

著者にはかなり申し訳ないが、正直に感想を述べると、若者に対する鬱憤が溜まっている年配の方が溜飲を下げる為に読む本の様に思えてしまった。
確かにケータイに代表されるIT技術の進歩は我々を、特に若者を大きく非文化的、非常識、非人間的な存在へと変えていっている面はあると大いにあると思う。ケータイやネットに依存し、コミュニケーションも上手く取れず、キレやすかったり家族とも良い関係が保てていなかったり、そういう若者は多いだろう。そして考えない人間が増えているであろう事も感覚としては納得する。もちろん僕はまだ30年も生きておらず、過去がどうだったかなど肌では知らないが、まあ一昔前は今よりも色々と考えなければならないことが多かったのは事実だろうと思うし、我々や我々より若い世代の人間が、IT化により節約できた時間を何か他の事に有効に投資しているかと言われれば、まあほとんどの人間はしていないだろう。
しかしこういう話を読んだり聞いたりすると必ず思うのだけれど、例えば電話が無かった時代の人間は、電話が当たり前の世代の人間よりも(例えば)考える人間なのか。郵便システムが無かった時代、自動車が無かった時代、印刷技術が無かった時代、飛行機が無かった時代、電気が無かった時代、果ては言葉が無かった時代はどうか。昔は良かった的な意見を言う場合には、必ず今語ろうとしている「昔」よりも昔の話を考慮してからにしてもらいたい。近年のIT化だけが人類が今まで歩んできた技術の進歩の中でも特別な存在だというのであれば、その根拠も示してもらいたい。
あと枝葉に突っ込むようだけれども、第四章の「文化の喪失」にて「ルイ・ヴィトンが売れているのは商品が良いからではなくて、マスコミに取上げられているし、皆が持っていていて自分が持っていないとつながりを保てないからだ」、「ハリーポッターが売れたのは外国で評判になったから」と主観で決め付けているのにも関わらず、その直後に「「バカの壁」が売れたのはタイトルが注目されたのがきっかけだけど、その真面目な内容が受けた」と日本人の同業者には妙なフォローを入れている。「「蛇にピアス」も「名作だけど、本来ならばあまり売れそうもないのに売れた」」とも言っている。完全に主観と事実を混同している。「バカの壁」と「蛇にピアス」は内容的にも良いのだけれど、ルイ・ヴィトン(多分ハリポタも)は良くもないのに皆踊らされて買っている、ということらしい。別に著者がヴィトンが嫌いならそれはそれで良いのだけれど、こんな書き方では若者に説教する為に都合が良いからルイ・ヴィトンを担ぎ出したおっさん、という構図にしか見えない。昔、若者の長髪が嫌いな中年の男性が、長髪の若者が風邪をひいたときに「君はそんなに長髪だから風邪なんかひくんだ」と無茶な理論を展開していたのを聞いたことがあるのだが、それと似たような印象を受けた。

プログラマと無口

最近至極当然のことに気付いた。優秀なプログラマは無口だ。それも業務時間に限って言えば確実に無口だ。プログラミングに集中しているんだから当たり前だ。業務時間中になんやかんやと無駄話をくっちゃべってるってことは、それだけプログラミングに集中していないってことだろう。「無口=集中している」では決してないが、「無駄にしゃべっている=集中していない」は成り立つだろう。こんなに至極当然な事なのに、意外と気付いていない人間が多い気がする。先日http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070601/1180649356というエントリを書いたが、「コミュニケーション能力を評価する」等と言い出す人間は、大体こういう基本的な事実を抑えていないのではないか。

ちなみにプログラミングしていないときに喋るか喋らないかはそれぞれと思われる。

ティム・オブライエン「世界のすべての七月」

世界のすべての七月

世界のすべての七月

訳者(村上春樹氏)のあとがきに「今の若い世代の人がこれを読んだらどのように感じるのか知りたい」という様なことが書いてあったのだが、正直言うと1969年という時代を知らない僕にとっては、この同窓会の空気、この同窓会に集まった人間の考えなど、どれもしっくりこないことばかりだったように思う。しっくりこなかったから小説が面白くなかったとか、面白かったとかそういう話ではないのだけれど、全体としてはあまり楽しめなかった。
ただ小説の技巧的には面白く感じたのだが、長編小説の様でもあり、短編小説の様でもありというつくりになっている。僕はそんなに読書経験があるほうではないが、こういった作りの小説は初めて読んだ様に思う。
さて、この同窓会のメンバーに対する1969年の様な年が我々にもあるのだろうか。可能性としては2001年かな、と思った。衝撃的な事件があったし、あの年に我々の世代は社会に飛び出したのだ。従って一番印象的な年となっている可能性は高いかもしれないとぼんやり思った。

はてなスター

なんやら星が消せないだかなんだかで騒ぎが起こっているようだけれども、とりあえず僕ははてブに変わる(多分)エントリ評価方法としてこれには賛成。手軽で良さそうだし、ちょっと前に梅田さんのチャットイベントで話していた「褒めよう」的な話がここに来て具体化してきたのかな、という印象を持った。

それにしても星が消せる消せないなんて、しばらく時間が経ってしまえばどうでも良いことだと思えてくると思いますけれど。それに消せないようにしてるってのは、何かそこに哲学がある訳で(技術的にはやろうと思えば一瞬だろう)。それを無視してユーザー無視とか言っているのはかなり違うと思う。ユーザーはあなた方だけではないし。

とりあえずこのエントリにスターを付けてみるテスト。

追記

あとこのスター機能って、どことなくトリビアの「へぇ」ボタンを思い起こさせる。なのでスターをクリックしたときに星が瞬くとか、そういうリアクションが欲しいと思う。

マイケルルイス「ライアーズ・ポーカー」

ライアーズ・ポーカー―ウォール街は巨大な幼稚園

ライアーズ・ポーカー―ウォール街は巨大な幼稚園

著者の作品は以前にニュー・ニュー・シングマネー・ボールと読んでいたので、正直言うと本書には違和感を感じたというか、「あ、こういうモノ書いてデビューしたんだ」的な印象を持った。カッコいい女性シンガーのデビュー曲がアイドル丸出しの歌と歌い方だったときに感じるアレだ(って分からないか)。
著者がソロモン時代にかなりの成功を収めていたという事実には単純に驚いた。その様な人がそうそうと物書きに転身するという構図は珍しいであろうと思っていたから。まあ駄目駄目だったんだろうと思っていた訳ではないのだが。
僕は投資銀行をはじめとして、金融なるものにあまり興味がない。まあ金融と言っても幅広く、一纏めにすること事態が批判の対象にもなりかねないが、あえて一纏めにして興味がないと言っておく。金融業界に従事している人を批判する気もまるでないし、それなりに大きな社会的意義を持った仕事でもあると思ってはいるのだが、やはり僕が求めている種類の価値の創造をしていない業界だという想いがある。繰り返しになるが金融と言っても幅が広いし、例えばGoogleだってAppleだってお金を出してくれる人間がいたからあそこまでの価値を創造できたことは間違いない。それは確実。でもまあだから興味が出るかと言われれば出ない。まあ僕はあまり勝ち負けに興味がなく、さらに大雑把な性格だし、数値的な能力もそんなにないのでとても投資銀行でやっていくことなど出来なさそうだが、まあ大抵の集団がそうであるように色々な人間が投資銀行にもいて、僕が今上げた条件を全て満たしているにも関わらず大成功を収めている人間もいるだろうけども。

プログラマ

偶然見ていただけなのだが、Wikipediaでプログラマを見ていたら以下の様に書いてあった。ちょっと長いけど引用。

品質や残業の発生など、プログラミングに関する問題について、多くのプログラマがオブジェクト指向、エクストリーム・プログラミング、アジャイルソフトウェア開発などのソフトウェア工学を熟知していないことが原因であるという見方がある。 しかし、日本では、このようなソフトウェア工学を修得する機会や研修期間、社内教育が用意されない企業も少なからずあり、企業のソフトウェア開発に対する認識が甘いのではないかという指摘もある。

また、大学など先端教育機関でのコンピュータサイエンスや情報工学、情報科学の研究成果が生かされていないことも指摘されている。採用の際に、「学歴なんか関係ない」「大学は何も役に立たない」と言い切る担当者も少なからずおり、専門教育を受けていたかどうかによる初任給の差も少ない。 [1] このような大学軽視の背景には、IT企業にはベンチャー企業が多く、学歴や大卒に対する偏見や誤解を持っている者も多いからと主張する者もいる。

大学等の専門教育が必ずしもソフトウェア開発の銀の弾丸にはならないことが近年わかってきてはいるが、それらが全く無駄だとは言い切れないことも事実である。顧客や経営者、マネージャの判断や行動等により、プロジェクトによっていかせる技能・知識に幅が出ることも、プログラマに必要な技能や知識は何かという問いを難しいものにしている。

ことにフレームワーク、デザインパターン、アルゴリズム、イディオムの効果的な実装に関しては、発想の柔軟さというものが切に求められる分野の職業でもある。そのためプログラマの能力によっては、実質的な仕事量が人によって数倍以上の開きを持つことも決して珍しくない。

なお欧米では学歴に関しては状況が逆で、学歴と待遇が比例しているといわれている。例えばマイクロソフトやグーグルといったソフトウェア関係の大企業では名門校出身者や高学歴保持者を特に優先して採用するのが一般的であるほか、ジョエル・スポルスキなど、優秀な人材を確保したければ優秀な大学で採用活動をすべきと明言するベンチャー起業家も多い。

プログラマ – Wikipedia

世間がどう考えているかとか、プログラマと呼ばれる人間の実力が大体どうだとか、誰も分からないし、僕がそんなことを断定するのはおこがましいが、まあWikipediaってのは誰でも編集できるわけだから、大体世間の総意だと思ってもいいかもしれない。勿論、この記事を編集しているのはほとんどプログラマだろうから、プログラマの総意ってことになるけれど。
実は僕も勤務先の経営者に同じようなことを言われたことがある。まあ日本の大学の教育レベルがあまり高くないであろうことは分かるし、学生があまり熱心に勉強していないのも分かるが、それでも何を勉強していたかとか、どんな経験があるのか、を無視してプログラマを採用するのは無理があるように思っている。勿論大学卒業時にまったくもって未経験だったけれど、輝くような才能を持っている、という例が無いとは思わない。しかし僕が色々な人を見てきた小さな経験から言わしてもらうと、かなり例外だと思う。頭が良い人を採用することは出来ても、そこからさらにプログラミングに熱意を持ち、継続的に学習を続ける人間を見つけるとなるとかなり難易度は高い。
僕は単純に、いつの日にかプログラマが専門職として世間に認知されれば嬉しいなと思っている。あまりにもプログラマと呼べる職業の幅が広いから難しいんだけれど、いつの日かそうなれば良い。高度なプログラミングを行う人間の仕事は専門職と呼ぶに相応しく、多くの知識と経験が必要とされる。世間的に専門職として認知されているであろう弁護士、医者、公認会計士等にもまったくひけをとらない職業だと僕は思っている。いつの日かそれが世間に認知されれば嬉しい。そんなことを単純に考える。
話は変わるけど、ついでに英語版のWikipediaを覗いてみたのだが、日本語版のプログラマの欄にあったような残業だ徹夜だ休出だというネガティブな空気がほとんど無いことに驚いた(Wikipediaはそういうことを書く場ではないという認識が強いだけかもしれないが)。まあ最後の方にオフショアリングによって仕事が無くなるのではという心配が載っていたけれど。

Enrollment in computer-related degrees in U.S. has dropped recently due to lack of general interests in science and mathematics and also out of an apparent fear that programming will be subject to the same pressures as manufacturing and agriculture careers. This situation has resulted in confusion about whether the U.S. economy is entering a “post-information age” and the nature of U.S. comparative advantages. Technology and software jobs were supposed to be the replacement for factory and agriculture jobs lost to cheaper foreign labor, but if those are subject to free trade losses, then the nature of the next generation of replacement careers is not clear at this point.

Programmer – Wikipedia

村上春樹「遠い太鼓」

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

感想を正直に言えば、羨ましかったというか、このような旅を私も妻と経験してみたいという種類の事が一番最初に出てきてしまう。もちろん彼らは遊びに行っていた訳ではなく、小説を書き上げる為という立派な理由があるし、書いてあった通り楽しいことばかりではなかったようだが、それでもこのような長期の旅を(しかも三十代後半で)経験することが出来る人間というのは限られているだろうから、やはり純粋に羨ましい。とにかく本を読んでいて、出てくる料理とワインが美味しそうだった。それが強く印象に残る。
あと感じたのが、やはり小説を書くというのは芸術的な創造作業なんだという当たり前のこと。村上春樹さんなんかは、なんとなく普段我々が仕事をしているように、定期的に、継続的に、ときに単調に小説を書くという作業を進めているイメージがあるが、それでもやはりそういう状態に自分を「持っていく」ことが出来ないと中々書けないものなんだなあ、と実感。そのためにも旅が必要なのだとしたら、旅も彼にとっては仕事の一部と言えるだろう。
あ、イタリア人のいい加減さに辟易している様も印象に残っているが、最後の方に書かれていた内容から推察するに、しばらくイタリアから離れているとそのいい加減さすら愛すべきイタリアの一部ということで懐かしく思ってしまう。イタリアってそんな国ではなかろうか。まあ犯罪は勘弁して欲しいんだけど。

「世界の技術者、刺激したい」――ライブドアRSSリーダー英語版公開

「Fastladderを公開し、世界の開発者にアピールすることで、Web型RSSリーダーの世の中のベースラインを引き上げたい。使い勝手のいいユーザーインタフェースで数千件のRSSフィードを軽く処理できるくらいの状態には、当たり前になっていてほしい」(ma.laさん)

「世界の技術者、刺激したい」――ライブドアRSSリーダー英語版公開 – ITmedia NEWS

世界を目指す姿勢がカッコいいし、全体的なRSSリーダの質を上げたいという心意気もイカす。頑張って欲しいし、負けないようにしたい。