二十代は模索のときブログ」カテゴリーアーカイブ

マイルス・デイビス、クインシー・トループ「マイルス・デイビス自叙伝」

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)

  • 作者: マイルスデイビス,クインシートループ,Miles Davis,Quincy Troup,中山康樹
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1999/12/01
  • メディア: 文庫
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マイルス・デイビス自叙伝〈2〉 (宝島社文庫)

マイルス・デイビス自叙伝〈2〉 (宝島社文庫)

  • 作者: マイルスデイビス,クインシートループ,Miles Davis,Quincy Troup,中山康樹
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1999/12
  • メディア: 文庫
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当たり前の話だけど、音楽は聴くものであって読むものではないから、例えばJAZZとかクラシックが分かるようになるといったタイトルを冠した本にはそれとなく嫌悪感を抱いていた。本書もおそらくマイルス・デイビスが作者でなかったら、もちろん実際の著者はクインシー・トループなのだろうけれど、この本を購入することはなかったと思う。
結論から言うと買って良かった。すごく面白く読めた。僕はJAZZに関しては最近聴き始めたばかりの素人だし、マイルスの作品はKind of Blueしか持っていなかったので、おそらくこの本を十二分に楽しめる程の知識を持ち合わせてはいないはずだが、それでも面白いと感じる事が出来た。個人的にはJAZZの歴史の流れの勉強にもなったという意味で、マイルスがコカインに犯されていく前の、ディズやバードとのニューヨーク時代の話が一番興味深かった。おそらく、この頃のニューヨークのJAZZをリアルタイムに、肌で感じるということがJAZZファンの共通のひとつの大きな夢なんだろう。マイルスの作品はこの本を読んでから5作品ほど聴いてみたが、いまのところこの時代に録音されたBirth of the Coolが一番好きだ。もちろん、天才マイルスの後期の作品に僕が着いていけてないだけだという事実は認めなければならないが。

G.パスカル ザカリー「闘うプログラマー」

闘うプログラマー 上巻

闘うプログラマー 上巻

闘うプログラマー 下巻

闘うプログラマー 下巻

文句無しにスリリングだった。たまたま寄ったBOOK OFFで下巻だけ売っていたのを見かけて購入したのだが、あまりにも面白かったのですぐにAmazonで上巻も注文。とにかく一気に読めてしまった。
こういったドキュメンタリーものは、まあかなりの程度に大袈裟に書かれているだろうとは思いつつも、ソフトウェアの新製品の開発、いや新製品の開発現場というのはまさに「闘い」の場であることは、多少なりとも知っているつもりではあるので、この本に書かれている内容、つまりWindows NTの開発現場での「闘い」というのはある程度リアルに消化できた。
本書の中でもそうであるが、大抵こういった開発現場での闘いというのは、ライバル企業の闘いがどうのというようりも、企業内の部門同士の闘いであったり、個人同士の闘いであったり、もしくは自分の中での闘いであったりする。営業部門と開発部門とか、開発者とテスト担当者とか、開発監督者と開発者とかそういった組み合わせで日々闘いは起こる。正のエネルギー同士のぶつかり合いだけであれば良いのだろうけれど、現実には負のエネルギー同士のぶつかり合いなんてのもしょっちゅう目にする。開発手法の教科書だとか、新製品開発プロセスの方法論だとかそういうものって世の中には結構あるんだろうけれど、まあ実際に現場に出てみると、体系的に学べるような知識を大きく超えた部分で、何か得体の知れない大きな渦の様なものを相手にしなければならない。だからといって知識や経験が無いものが相手にされるような舞台でもない。そんな中でWindows NTという当時の新製品を「出荷」するところまでこぎ着けた彼らは、今更ながら賞賛の拍手を送りたい。

ポール・オースター「トゥルー・ストーリーズ」

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

柴田元幸さんが積極的に翻訳されているポール・オースター氏の本を読んでみたいと購入。実は中身もよく見ずに適当に買ってしまったので、この本がエッセイ集であることに読み始めるまで気が付かなかった。ただし訳者あとがきにもあるように、このエッセイ集はタイトルの通り著者の身の回りに起こった「本当にあった話」をまとめたようなつくりになっており、そのほとんどすべてが「事実は小説よりも奇なり」という言葉がまさにぴったりと当てはまる様な話を中心に展開されている。
ただ僕が思うに、著者の身の回りで起きたことが、我々の身の回りのそれよりも非常に偶然性に富んだものであることは認めるが、それにもまして重要なのは、著者が彼の周りで起きる様々な出来事に非常に強い関心をもっており、またそれを強く愛していることではないかと思う。極端な話、昔起きた事を片っ端から忘れてしまうようであれば、奇妙な偶然を感じる機会は非常に少なくなってしまう。自分の周囲の人々に注意を払わなかったり、彼ら彼女らの話を聞かなかったりすれば、それも「あなたを心底驚かすような偶然のいたずら」を逃す行為となってしまうだろう。だからもし著者のように色々な「本当にあった話」を手にしたいとするならば、自分とその周りのすべての事に関心を持ち、興味を抱き、そしてそれらの事を頭の中に留めておくよう心掛けるべきだろう。
ちなみにこの本は日本独自編集らしい。

アーネスト・ヘミングウェイ「われらの時代」

また酷い誤訳があるのですが、翻訳教室の6番目の課題を翻訳しましたので掲載します。今回はヘミングウェイの「in our time」です。

第5章彼らは午前六時半、病院の壁にて六人の大臣を銃殺した。病院の中庭にはいくつかの貯水池があった。舗装路には、枯れ果て、濡れた葉があった。激しい雨だった。病院の全ての戸は、釘で打ち付けられ閉ざされていた。大臣のひとりは腸チフスを患っていた。二人の兵士が彼を階下まで運んでいき、雨の中に放り出した。兵士達は壁を背に彼を立たせようとしたが、彼は水たまりの中に座ったままだった。他の五人は壁を背に、極めて静かに立ちすくんでいた。とうとう指揮官が、その大臣を無理に立たせなくてもいいと兵士達に言い渡した。兵士達が一度目の一斉射撃をしたとき、彼は頭を膝の間に突っ込みながら、水たまりの中に座っていた。

第7章
砲撃がフォッサルタの部隊の塹壕に打ち込まれている間、彼は真っ平らに横たわり汗ばみながら、神よここから私を連れ出して下さいと祈っていた。おお神よどうか私を連れ出して下さい。神よ、お願いしますお願いしますお願いします神よ。もしあなたが私を死から護ってくれるのなら、私はあなたの言葉のすべてに従います。私はあなたを信じますし、私は世界中の人すべてに唯一重要なのはあなたであると伝えます。お願いしますお願いします親愛なる神よ。砲撃はより前線へと移動していった。我々は砲撃された塹壕に取り掛かりに行った、そして朝には太陽が上がり、その日は暑くじめじめとしていて陽気で静かだった。戻ったメストレでの次の晩、ビラ・ロッサで一緒に上の階に行った娘に、彼は神について何も語らなかった。その後も誰に語る事もなかった。

われらの時代・男だけの世界: ヘミングウェイ全短編 (新潮文庫)

われらの時代・男だけの世界: ヘミングウェイ全短編 (新潮文庫)

ベンジャミン・フランクリン「フランクリン自伝」

フランクリン自伝 (岩波文庫)

フランクリン自伝 (岩波文庫)

こんな読後の感想は何か妙に思うが、この本を子供の頃に読んでおけば良かったという感想と、いや読まずにおいて良かったという両方の感想を持った。つまり凄く強い影響力を持つ本のように僕には感じられ、二十代最後の年を謳歌している自分にもそれなりに影響を与えてしまうような本だから、感受性豊かな頃に読んでいたら「自分もこんな風に生きなければ駄目だ」とか「こんな風に生きていくなんてまっぴらごめんだ」とか、とにかくそういった強い思い込みを持ってしまったに違いない。その思い込みが良い方向に出てくれれば万々歳だけれど、なんか悪い方向に行っちゃったらとことん行っちゃいそうな、そういうある種のストイックさ、清貧さ、一直線さがこの本には感じられる。
僕は元来ストイックな生き方や勤勉さというのが好きなタイプであるので、フランクリンの生き方には非常に好感を持ったものの、その一方でいわゆる現代的な感覚、という曖昧だが自分の心の中にあるそんな部分と、彼の生き方の間にあるギャップには違和感もおぼえた。あーでも彼の時代に生きた他の人々は本書から察するに、今僕が書いた「現代的感覚」というのは持ち合わせていたように思うから、これを現代的感覚とか呼んでしまうのは多少おかしいか。まあでも生きていくこと、とか生活していくことというものに割り当てるエネルギーは、どう考えても現代人方が少ないであろうと思うから、やっぱり現代的感覚なのかもしれない。
なんかベンジャミンが議論の方法を模索している辺りなんかは思わず「お前は俺か」くらいに思ったりもしたし、その他引用したいなぁと思わせる素晴らしい箇所がたくさんあったのだけれど、基本的には名著だと思うので、気になった方には是非自分で購入して読んでもらいたし。軍事の話が出てくるあたりからはあまり面白くないと感じた。あとあれだ、酒に溺れるのだけはやめよう、と思った(笑)

やっぱり本を読もうと決めた

技術の勉強に当てる時間を増やす事を目的として、「今年は読書しないんだ」とこのエントリで誓ってから半年以上過ぎたが、やっぱり本を読もうと決めた。どうにも自分の人生にとって読書というのは避けられない程に大切なものとなってきている。読む本の選択には慎重を期したいと思っているけれど、どんな本が自分の血となり骨となるか、そんなことは誰にも分からないので、大胆にいつも読まない様な路線の本を選ぶ事も忘れないようにしたい。

柴田元幸「アメリカ文学のレッスン」

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

ヘミングウェイをいくつか読んだ事がある程度、つまりアメリカ文学なんてほとんどよく知らない僕だが(何文学もよく知らないけれど)、本書を楽しむことが出来たのはおそらく筆者の筆力によるものだろう。それに対象が何であれ、ある分野に非常に精通した人、ある分野を非常に愛している人、言葉は悪いけれどある分野に対してマニアックな人から、その分野に関する話を聞くというのは面白いことである。だからアメリカ文学の専門家からアメリカ文学の話が聞ければ、それは大抵面白いことになる。本書はまさにそういう感じ。
レッスンとタイトルにあるし、著者は東京大学の教授だから、授業内容がそのまま本になったような中身を想像されるかもしれないが、そういうわけではない。本書の中では、ある言葉、例えば「食べる」とか「勤労」とか「ラジオ」とか、から連想されるアメリカ文学の作品や作家が紹介され、著者がそれらに対して考察を加えるという内容になっている。著者のアメリカ文学に対する洞察の深さは、僕になんか判断出来る事ではないだろうけれど、おそらく相当なもので、作品や作家に対する知識はもちろんのこと、作品や作家の背景となったアメリカの歴史的事情や経済状態なんかも踏まえて、非常に大きな枠組みで文学を捉えており、おそらくアメリカ文学というよりは「アメリカ」を専門としているとも言えるのではないだろうか。
ちなみにこの本の中で紹介されている作品で、何故か一番読んでみたいと思ったのがベンジャミン・フランクリンのフランクリン自伝 (岩波文庫)である。次の機会にでも購入してみよう。

村上春樹「雨天炎天」

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)

そう言えばこちらではまぞうを使用しないアフィリエイトについて言及されているのを見かけてから色々と試してみたのだが、Amazonの張り付けコードを使ってしまうと、どうにも見た目がすっきりしなかったので、僕はやはりはまぞうを利用することにする。
さて、本書は一応村上春樹氏がギリシャとトルコに滞在したときの記録なのだが、副題に「辺境紀行」とあるように、我々が一般的に頭の中に思い浮かべるギリシャやトルコとは大分様相の違う、まさに辺境に旅をしている。正直に言うと、トルコで頭に浮かぶイメージなんてひとつもないくらいトルコについては知らないのだが、これが普通の旅行とは違うであろうということは容易に想像がつく。
ギリシャではアトスという半島に旅されているが、正直な感想を述べるのであれば「アトスには生涯行く事はなさそうだな」というのが正直なところ。夫婦というユニットで旅行している以上、奥さんが行きたがるところでないと旅行はできないが、ここは確実にその部類に入らない。いくつかある修道院で日々宗教的な修行に取り組んでおられる僧の方々のストイックさを想像すると、なんとなく子供の頃に読んだ聖闘士星矢に出てくる聖闘士達の修行を思い出してしまう。車田正美さんなんかも、取材でこういった場所を訪れたのではなかろうか。
トルコ滞在について書かれた部分では、トルコ人の方々のかなりの親切さが非常に印象に残った。日本を訪れた外国人の方からは日本人のホスピタリティの素晴らしさ、といったような話を聞く事も多いのだが、トルコ人の方々のそれはちょっと程度というよりは種類が違うのではなかろうか、そんな印象。そう言えば昔テレビで岩手の方々の親切具合がすごいといったような内容を観た事があったけれど、それよりもっと凄そうである。
あと今まで会った事のあるトルコ人って皆さんくっきりとした凛々しい顔つきだったのが印象的だったのだが、この本の中の写真を眺めていると、どうもトルコの人というのはそういう顔らしい。欧州と中東に挟まれているという独特のお国柄が、顔つきにも表れているような気がしてくるのは不思議なものだ。

コミュニケーション能力に関する昔のエントリ

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070601/1180649356という以前書いたエントリだが、今でもちょくちょくとはてなブックマークを付けて頂く事がある。これは結構めずらしいケースの様に思う。大抵はてブはエントリを上げてから1日ないし2日くらい経つともう付かない。このエントリはありがたい事に今までで一番ブックマークして頂いたエントリだが、珍しい売り上げ(?)曲線を見せてくれているという点でも興味深いエントリとなった。推移はこちらで図でも確認できます。

バリー・ユアグロー「鯉」

柴田元幸さんの翻訳教室の二番目の課題を翻訳してみた。生徒や教師の訳例を見ると、自分がひどい誤訳をしている部分をいくつか発見したが、敢えてそのままにしておくことにする。ちなみにこういった文章をBlogに記載することには何らかの権利的な問題があると思うので、ご指摘頂ければすぐに削除しますとここに記しておきます。

バリー・ユアグロー

人生から逃れる為、君はこっそりと公園の池を訪れ、その深みに身を沈める。君は池の鯉に囲まれて生きていくのだと決めた。君は鯉人間となるのだ!
水の中では全てが心地良く、そしてくすんでいる。鯉達はびくびくと泳ぎ回っている。幸せそうには見えない。「奴らは僕を邪魔者と見なしている」と君は思った。「うん、だけどね。奴らは池の外の世界を責めるべきなんだ。奴らが不幸である事について」。
君は一晩過ごせそうな場所を見つける。息を止めているため頭がふらふらとしてきたが、思っていたより大変ではない。周りをじっと見つめていると、君は大きな衝撃を受ける、そしてほとんどぎょっとして水を飲み込む。女の子が君を見つめている!
彼女の髪は流行のオレンジ色、そして大くて分厚い白い靴下を履いている。君は呆然と彼女を見る。彼女は君に手でサイン、明らかに「あなたここで何をしているの?」を意味している、を送る。お返しに、君は同じ質問をサインで彼女に返す。その娘はイラついて顔をぐいと上げる。彼女は背中側を親指で指す。そこはまだぼやっとしていたが、たくさんの人々が池の底中にいるのが今は見える。君は彼らに驚く。「鯉人間!」と君は思う。しかし彼らは歓迎していないように見える。そう、彼らは顔をしかめているんだ。彼らは一斉に「シッ、消え失せろ」というジェスチャーを君に送り始めた。例の女の子も腰に手を当てながら君を睨んでいる。
君はこの敵意に対して何も言えず、ただ彼らを見つめている。「ごめんだねっ!」君はついに声を出した、半狂乱になって。泡がどっと溢れ出す。「嫌だ、俺はあの不幸な地上には戻らないぞ!俺はあの鯉達と一緒にここに潜んでいたいんだ!」
「消えろ!」彼らがそうジェスチャーする。「最初にここに来たのは俺たちだ!出て行け!」人々は君の目と彼らの目、そしてこの池の底にある絶望と憤りを互いに睨みつける。
そして鯉は軽快に泳いでいく。尾びれをひらひらと動かしながら、無慈悲にその光景を見つめながら。

ケータイ・ストーリーズ

ケータイ・ストーリーズ