月別アーカイブ: 2007年12月

今年読んだ中で面白かった本10冊

定番イベントですけどやっときます。あくまで「今年読んだ本」であった「今年出版された本」ではありません。技術書は含みません。順位も付けませんのであしからず。紹介文は僕が書いたエントリからの引用です。

特捜検察の闇

特捜検察の闇 (文春文庫)

特捜検察の闇 (文春文庫)

魚住昭「官僚とメディア」 – 二十代は模索のときブログで紹介した「官僚とメディア」と同じ魚住氏による本書は、この日本で起こっている司法の腐敗を抉り出したもの。相当に読み応えがありました。

著者は本書で語っているように、以前は特捜検察のファンだったという。特捜検察という前著は特捜検察の活躍を描いたものであるようだ。しかしその著者が今度は検察、そして司法全体に蔓延る腐敗の構造に光を当てることになった。日本の司法にどんな変化があったのか、そしてこれからどう変わっていくのだろうか。そういったこと深く考えさせられる内容である。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20071116/1195167489

過剰と破壊の経済学

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

梅田本も勿論そうだけど、ソフトウェアや通信など、所謂で活躍する若き人材や、将来それらの業界を目指している学生達にはこの「池田本」も是非読んでもらいたい。なぜかというと、この池田本で今僕らが属している世界というのはどういう世界なのか、どのように成り立ったのかを総覧出来るからだ。この池田本で自分達の属している世界の構造をしっかりと把握してから、梅田本を読んで夢や将来像を作り、それを達成する為の戦略を練ってほしい。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20071216/1199056395

生物と無生物の間

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

本書は「生物とは何か」という根源的な問いに対して著者自身が答えを出そうとしたその経過を記したものである。我々は普段そのような問いかけをすることはあまりないが、「生物」と「無生物」というものを無意識のうちに判別しているし、何かをその境界に見てとっているはずである。それは一体なんなのか?それを追っていくのが本書のテーマである。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070819/1187488098

翻訳家の仕事

翻訳家の仕事 (岩波新書)

翻訳家の仕事 (岩波新書)

当然ながら文章を生業にしている方々ばかりなので、非常に読ませる内容で本書は満ちていると思うが、それよりも何よりも翻訳という仕事、もっと言えば自分が真剣に取り組んでいるある作業に対する考察が非常に興味深いものとなっている。プログラマがプログラミングという作業について真剣に考察しているようなブログエントリが非常に面白いのと同様、翻訳家が翻訳と向き合う姿を描くこの本は面白かった。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070419/1176933446

進化しすぎた脳

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

本書では脳科学者の池谷裕三氏が、それこそ「中高生にも分かるように」脳についての説明を行ってくれている。授業の内容をそのまま文章にしたこともあって非常にテンポも良く、さくさくと読み進めることが可能。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070224/1172276215

風の歌を聴け〜ダンス・ダンス・ダンス

風の歌を聴け (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

偉そうなことを言ってしまうなら、素人のくせに能書きを垂れてしまうなら、羊をめぐる冒険とダンス・ダンス・ダンスの間には奇妙な溝があるように感じたというか、連続して読んだからかもしれないけれど、昇っていたエレベータの景色が急に様変わりしたようなというか、何か異質な世界に入ったような感覚を覚えた。これは70年代的なものと80年代的なものの違いなのか(そして僕が生まれた時代と育った次代の違いでもある)、村上春樹という作家の成長もしくは変貌によるものなのか、あるいはただの僕の読んだときの体調であるとか気分であるとかそういった読者側の要因なのか、その辺は分からないのだけれど、確かに溝がそこにはあった。少なくとも僕の今回のこの読書においては。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20071028/1193531149

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

実は先日翻訳夜話2 サリンジャー戦記(文春新書)という新書を購入して読み出したのだが、どうもこの本がこの村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいることを前提にしている本だったので(当たり前と言えば当たり前だが)、そちらを一旦中断し、本書を読んでみた。おそらく本書は多くの人は思春期というか、少なくとも社会人になる前に読む類の本ではないかと推測したがどうなのだろうか。僕はもういい大人になってから本書と出会ったので、多少他の人と感じ方が違うかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070526/1180133736

特捜検察vs.金融権力

特捜検察vs.金融権力

特捜検察vs.金融権力

スリリング。特に第1部のスリルはかなりのものだと思う。蜜月だった時代から大蔵官僚の摘発にいたるまでの特捜部の動きの変化は非常に興味深い。僕の頭の中に漠然と染み付いている数々の思想は、こういった日本の中枢にいる人達の「成果」なのかと思うと不思議である。例えば「大蔵省とノーパンしゃぶしゃぶ」なんて言葉が世間を飛び交っていたとき、僕はほんの子供だったはずだが、しっかりと頭に刻み込まれている。佐川急便事件やリクルート事件にしても同様だ。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070510/1178748438

いかにして問題を解くか

いかにして問題をとくか

いかにして問題をとくか

本書はポリア教授により、数学の問題を解くに当たっての考え方の手順や方法を学生にどの様に教えるか、という目的で書かれたものである。が、どんな数学の問題にでも当てはめることが出来るように、その手順は十分に抽象化されている為、数学を超えて、色々な物事の問題を解決するときにも使える内容になっている。一度は目を通しておき、ポリア教授の言葉を頭に刻んでおくと有意義だと思う。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070728/1185591639

獄中記

獄中記

獄中記

本書を読んでいて一番感じたこと、それは意外かもしれないが「ユーモアの大事さ」である。「ユーモアを持ち続けることの大事さ」と言った方が良いかもしれない。前半にそういった件があった気がするが、佐藤氏はこの状況においてもユーモアを持ち続けていようと務めていたと思うし、実際にそれは成功していたと思う。弁護団への手紙からも、外務省の後輩への手紙からも、彼一流のユーモアが感じとれる。こう書くと「ではユーモアとは何なのか」という哲学的な問いへと発展しかねないが、取敢えずは「現状を楽しむ力」と定義しておきたい。アカデミー賞で何部門かを獲得したイタリア映画「Life is Beautiful」は人間にとってのユーモアの大事さを描いた作品だと僕は認識しているが、あの映画を見たときのようにユーモアを持ち続けることの大事さを痛感した一冊だった。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070120/1169267742

さて、何をやめようか

以下の名エントリが2005年末だったいうのに驚いた。だってまだ凄く記憶に新しかったから。

さあ来年は何を始めようか。そう考えるのではなく「何をやめるか」を先に決めよう。それも自分にとってかなり重要な何かを「やめること」。

それが「来年の抱負」「今年の抱負」を真に意味のあるものにするための最重要ポイントだと思う。新しく始める「何か」を決めるだけでは、できない場合がほとんどだ。

「やめること」を先に考えよう – My Life Between Silicon Valley and Japan

タイトルで「さて」なんて書いたけれど、実はもう決まっている。
今年は読書をしない
と決めている。具体的に言うと、今まで娯楽の読書に使っていた時間は全て技術の勉強の為に回す。つまり技術の為の読書はする。僕の場合は技術の為の読書は娯楽にもなっているのだけど、純粋に小説とか、書店で気になった新書とか、文庫とかそういうのは読まない。読んでも月一冊程度にする。そう決めてみた。こういう何と言うか「偏り方」はある意味での成長の為には良くないとは思っているだけど、今年は何としても技術者としての飛躍の年にしたい。技術者として「技術」を飛躍させる年にしたい。その為に読書の時間を切り捨ててみよう、というのが今年の計画だ。実は年末に買って読んでない本が何冊かあったりするのだけど、それらはその「たまの月一冊」の読書に回す。もしかしたら来年読むことになるかもしれないけれど、まあそれでも問題ないだろう。
こんなこと書いていても、もう何ヶ月もしない内に「やっぱり読書をしないと人間としての深みが…」なんて不安になりだすのが僕の陥りそうなパターンだけれど、まあそれが今のうちから分かっているのであればコントロールも出来るだろう。という訳で本ブログの「読書記録」カテゴリは2008年度は激減する予定です。あまりいないかと思いますが、それをもし楽しみに読んで下さっている方がいらっしゃたら申し訳ありません。
今年も良い年にしましょう。

はてなと有料オプションとニコニコ動画とVimとチャリティー

はてなからのアクセス数のレポートがおかしいと思っていたら、有料オプションを継続するだけのポイントが残っていなかった。最近定期券がPASMOになってから、期限が切れているのに電車に乗っちゃったりってことをよくやってしまうんだけど、はてなのポイントについてもそれと同じ様なことをしてしまう。きちんとメールに目を通せばすぐ気づくんだろうけど、なかなかルーチンワーク化してる作業に思考を介入させることは難しいんだよね。
そう言えば今ネットで使用している色々なものの中で、対価として金銭を払っているのははてなとニコニコ動画くらいのものだなあ。ニコニコは実はそんなに見ていないので止めてもいいかな、とか思っているのだけど、ときおり大きな話題になる動画を見る為にまあお金を払っておくか、というような気持ちで払っている。元が取れてないと判断したらそのとき止めようかな、と。はてなについては代替の無料サービスはいくらでもあるし、はてなに1円も払わずに使える機能だけ使っていればまあそれでいいという方もたくさんいるとは思うのですが、なんとなくこの「お金を払って、サービスを得る」という行為がネット上では当たり前ではなくなってきてしまっている昨今、きちんとお金を払ってサービスを得るというのが心地よく思えたりもする訳です。あ、でも値上げとかされたら辛いなあ。
僕はVimというテキストエディタが大好きなんだけれど、Vimはちょっと変わっていて「チャリティーウェア」という名目で無償配布している。何がチャリティーかってえと、作者のBram Moolenaar は随分とボランティア活動に熱心な方で(Vimを作り、Googleに入る程のエンジニアであり、熱心なボランティア活動の推進者なんて尊敬しちゃいますね)、「もしVimを気に入ってくれたら、Vimのスポンサーという形で寄付をしてくれ」というスタンスをとっているんですね。Vimのユーザが世界にどれだけいるのかも知らないし、どれくらいの人がスポンサーとなっているのかは分かりませんが、彼がボランティアをしている地域の為の貴重な収入源となるでしょう。改めてソフトウェアの、そしてプログラマの可能性を感じさせる活動です。こんな形の社会貢献が出来れば、と思わず考えてしまいます。最低限度額なのが申し訳ありませんが、僕も気持ちを送らせて頂いています。
ああ、なんか主題のないエントリになったな。

クレイトン・クリステンセン「イノベーションのジレンマ」

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

読む前に予想していたのは「本書を読みながら目の覚める様な知的興奮を覚えるだろう」という事だったのだが、正直に言うとそういった現象は起きなかった。おそらく本書に関する膨大な情報が既に至る所に(特にネット上に)存在するので、僕の頭の中に本書のベースとなる基本的なアイデアがあらかじめ組み込まれていたせいだろう。逆に言うとそれだけ情報が溢れてしまうような名著なのである。この先何度となくページを捲る事になりそうな予感を感じたのは、やはり著者であるクリステンセン教授が示唆する通り「歴史は繰り返す」からだろう。細かい数字などを飛ばして読んでも本書の核となるアイデアは掴めるはずなので、まだ読んでいない方で、世の中に反乱している本書関連の情報をまだ吸収していないと思われる方は一読をお勧めしたい。
さて技術者*1の視点で本書を読んだとすると、強く思うことは一つ。それは「如何にして破壊的技術を生み出すか」ということ。著者の言う通り、この「破壊的イノベーション」というのは通常新しい技術ではない。新しくないというのはつまり「基礎研究から飛び出してきたばかりの技術ではない」という意味であって、顧客や市場にとっては新しい技術であろう。つまるところ「既に存在する技術をどのようにマーケットに適合するように利用出来るか」が肝である。当然そこには新たな技術的挑戦があることも忘れてはならない。「自動車を電気で走らせる」ということと「一般家庭で使ってもらえるくらいの自動車を電気で走らせる」ということの間には通常大きな違いがある。その間ではまた新たな研究が必要だし、新たな開発が必要である。そしてそういった現場に関わることはエキサイティングであろうと思う*2。そこで活躍するような技術者になる為にはどうすればいいのか。本書にはそのようなテーマはなかったけれど、読んだ結果としてそう考えさせられる。そういう本である。

*1:本書ではビジネスに関わる全ての活動を「技術」として捉えていたが、ここでいう技術は普通のTechnologyのことです。

*2:勿論基礎研究こそがエキサイティングだという研究者の方も多くいらっしゃると思います。

若きプログラマの価値観

基本的に商用言語って地頭が普通なら数ヶ月で覚えられるように出来ていて、逆にそうじゃなきゃ商売にならない。バッドノウハウを極めるには何年もかかるが、それこそ数年で廃れる技巧だし、会社に入って人柱として埋められてから積み上げれば済むことだ。大事なことはデータ構造とかアルゴリズムで、あとは社会に出てからの飲み込みを早めるに、オブジェクト指向っぽいCライクな言語*2をひとつぐらい覚えておけば良い。あとは大学なんだから、できるだけ世間で役に立たない才能の無駄遣い的な最先端技術に触れて、素晴らしい技術が流行るとは限らないことを思い知り、批判的な視座を持ちつつ頭を柔らかくしておいてくれることの方が重要だ。

大学で身につけるべきは技能より教養だろ – 雑種路線でいこう

今だから共感出来る文章だけれども、学生の頃というかちょっと前の僕でも共感が難しかったのではないかと思われる文章。この文面は主に大学批判だけれども、ちょっと学生側というかプログラムを側からの視点で考えてみたい。
いや、「考えてみたい」とか偉そうなこと書いてしまったけれど、結局「どんなことがかっちょいいのか」という価値観の問題なんですよ。血気盛んな学生の集まりの中でじゃあAVL木とかB-Treeのデータ構造がどういった用途に適しているだとか、SICPでLispの素晴らしさが分かったとかそういう話と、RoRでクールなページがさくっと出来たぜとかFLASHでカッチョいいアニメーションを作ったとかいう話とどっちが周りの人間に響くかといったら巧者な訳ですよ*1。そんな状況の中で硬派に教養を身につけようと考えられる学生というのはかなり筋の通った人間ではないかと思う訳です。事実、僕の勤めている企業に若いエンジニアが毎年は入ってくるけれど、硬派なデータ構造とかアルゴリズムとかフリップフロップとかそういう所を勉強しようなんてやつは滅多にいないです。基本はやれAJAXだRoRだっていう方向の話にみんな行っちゃいます。
僕も本郷の学生には軟派な方向に行ってほしくないって思うし(当然他の大学の情報系もそんな方向には行ってほしくないが)、それをしなければ明日の日本のIT業界なんて本当見えてこないんだろうけど、若い頃の価値観っていうのは結局周りからどう思われるのかってのがほとんど全てだろうから、自分の何分の一かってくらいしからプログラムを理解していない奴が自分よりも賞賛を受けている現状があるとしたら、そっちの方向に基本的には行っちゃうだろうなーと思います。

*1:江島さんのエントリを批判している訳ではないです。念のため。

成果主義が才能ある若者を潰すかもしれないという話

「成果主義」と聞くと、若く才能溢れる新入社員に大きなチャンスがありそうな気がするが、結局それは運用次第ということになる(まあ、世の中の大抵の事は運用次第だけど)。なにが「成果」なのか、を規定するのが古くからいる社員であったり、現在の体制で高評価を受けている人間だったりすると、悪意がなかったとしてもどうしても「現在の体制を守る」方に力学が働き、今現在自分がやっていることを高く評価する、もしくは新入社員が持っている「自分たちには不足している能力」を評価しないという体制が出来上がってしまう。これは僕だってそうだけれど、誰だって今の自分のポジションを脅かす様なことを積極的にする事はない。
それに「成果」というものは今までの社内での経験の積み重ねに大きく左右されるものである。極端な話であるが、会社の湯飲みが何処にしまってあるのかを知っているお茶汲みと、それを知らないお茶汲みの評価には大きく差が出てくるであろう。もし新しいお茶汲みが類い稀なるおいしいお茶を作るセンスを持っていたとしても、それがうまく評価されないようなレジームを作ってしまえばそのお茶汲みが評価されない様に仕向けるのは以外と簡単である。「お茶だけうまく入れられても駄目だよね」、「(社内的な事情)に詳しい○○さんはやっぱり凄いよね」的な発言が出てくるようなら、それは若者潰しの傾向の一つなんじゃないだろうか。

貧乏臭いプログラム

ユーザインタフェースのプログラムといえばすっかりグラフィカルユーザインタフェース(GUI)があたりまえになりました。ところが最近の計算機はメモリもディスクも大量に装備しているし CPUパワーも従来とは比べものにならないのに、意外と貧乏臭いインタフェースが生き残っているようです。

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もう何年も前に書かれたと思われる、現在Appleにお勤めらしい(凄いですね)増井俊之さんによる文章。誰にでも思いつきそうな「コロンブスの卵」的な話であるが(この言葉のこの使い方ってあっているのだろうか)、非常に示唆に富んだ文章であると思った。というか、現在もここに書いてあるような話は実体験として感じている。僕が開発に関わるERPシステムは個人向けでなく企業向けということもあってUIは重用視されていないことと合わさって、かなり貧乏臭いUIをユーザに提供している。僕らは自分で描画するような事は無いけれども、ここに書いてあるような「検索キーワードが変更される度に検索する」といった様な動きはまだまだ実現されていない。しかもクライアントがブラウザではなく、表現力が豊かだとされているWindowsアプリケーションであるにも関わらず、だ。
しかしよくよく考えてみると、企業向けのソフトウェアが個人向けソフトウェアよりもUIが弱くていいなんて不思議な話だ。企業向けのソフトウェアは仕事の効率、つまり会社の業績を左右する存在であるのに対し、個人向けのソフトウェアは個人の娯楽や趣味の為の存在であることも多い。だとすればエンドユーザの効率を大きく左右するUIに多くの関心が払われても良さそうなものだが。我が社だけの状況だろうか。それともバッチ処理等に掛かる時間が大きすぎて、UIにおける効率の向上なんてものは無視出来る程小さいということなのだろうか。

Now, not-native English speakers are the main stream

とするとテーマは別だ。世界共通語が英語だというのは分かったが、それはいったい誰のバージョンの英語なのか、ということになる。英語を母国語とするネイティブ・スピーカーと、外国語として英語を使う非ネイティブ・スピーカーの比率は今や1対3。ネイティブの3倍もの人が外国語として英語を使っているのだ。これからさらに何百万という人たちが新たに英語を勉強し始めるに連れて、この比率の開きはどんどん大きくなる。

http://news.goo.ne.jp/article/ft/world/ft-20071130-01.html

英語は世界の共通語というのは勿論なのだけれど、「どんな英語」がその趨勢なの?という話。英語のネイティブだ母国語だいう立場の人の三倍以上の人が世界にはいて、当然それらの人々が触れ合う機会が多くなってくると、ネイティブスピーカーの英語だって非ネイティブスピーカーの英語に飲み込まれていくんだよ、という現状を分析している。非常に良記事のように感じた。
しかしここ日本ではどこ吹く風、という感じがしてしまうのは悲しい現状ではないだろうか。「日本人英語」とでもいうべき訛りや間違いの癖というのはたくさんあるのだろうけれど、それらが英語そのものに影響を与える程には日本人は英語で情報を発信できていないのではないだろうか(もちろん、中国とかと比べてしまっては絶対数が違いすぎるけど)。
この記事の主題とは違うけれど、日本が必死で守っているパラダイス鎖国状態が瓦解したとき、英語を使えない人々が一気に社会的弱者に滑り落ちてしまうという可能性は意外とあるのではないかと思っている。今は英語を勉強するソースなんかそこら中に溢れている。学生も学校の英語の勉強の範囲に収まることなく、少しでも自分が国際的状況に存在することを意識しながら英語力を強化していってもらいたい。

プログラマに向いていない人

プログラマに向いている人

「後で楽が出来るように、いま面倒をしておこう」

プログラマに向いていない人

「後で面倒な事になるかもしれないけど、いまは面倒だからこうしちゃおう」

さらに向いていない人

「こんなのこうすりゃ楽勝じゃん。うっしゃー(気づいてもいない)」