二十代は模索のときブログ」カテゴリーアーカイブ

MacBook用の使いやすいキーボードカバーiSkin ProTouch

プレアデス iSkin ProTouch Keyboard Protector for MacBook - Ghost ISKPTMB-GH

プレアデス iSkin ProTouch Keyboard Protector for MacBook – Ghost ISKPTMB-GH

USキーボードでMacBookを買ってしまったせいで、対応しているカバーを探すのが大変だったのだが、探した中から偶然選んだのがこのiSkin ProTouch。実物を見る事もなく、適当にAmazonで注文してしまったけれどこれが当たり。キーボードの打ち心地もいいし、デザインもMacBookの美しさを損ねる事がない。まだ使ってからあまり経っていないけれど、材質も耐久性が良さそうなシリコンだ。感触からして長く使っても所謂凸凹状態にはならなそうだ。これは洗う事も出来るらしいのでMacBookを使い続ける限り長い付き合いになりそうだ。どうやら品切れをおこしているようだが、MacBook用のキーボードカバーを探している方にはお勧め。あ、日本語版でも上手くいくのかどうかは未確認なのでご注意。
外側を守りたい人は、以下のボディーフィルムもお勧めです。

パワーサポート MacBook 13インチ用ボディー保護フィルム PBF-33

パワーサポート MacBook 13インチ用ボディー保護フィルム PBF-33

他人の感覚と自分の感覚を比較することが不可能だという当たり前の話

「私って人見知りなんだよね」
「俺って友好関係狭いから」
「わたくしは人よりも人生経験豊富なので」
「わし程これが嫌いな人間はいない」
「私って人より朝弱いじゃないですか〜」

他人にはなれない。それは他人の感覚を味わう事が出来ないことを意味する。自分が感じる感覚は分かる。でも他人のは分からない。つまり比べることが出来ない。自分が感じているものを絶対的に判断することは出来る。でも相対的に判断することはできない。それは人間が背負う自然の摂理であり、感じる事が出来る、というのは自分というものの定義そのものであろう。
上記の様な台詞をついつい口にしてしまうことは多い。そしてそれが何かをしないことの言い訳になることが多い。でも本当にそうなのだろうか。上述したように他人と自分は比べられない。つまり他の人だって同じように感じているのではないだろうか。客観的に見て「あいつは絶対に違う」と思えるような人だって、表面的にはそう見せているだけかもしれない。それはあなたには判断出来ない。自分は自分しか判断出来ない。だから他人の感覚を勝手に過小(過大)評価して、それを自分の言い訳にしてはならない。僕の知っている限り、ほとんどの人は自分を人見知りだと思っている。でも誰だって、初対面の相手とは身構えるものなのだ。

正月三ヶ日早々に学んだ事

元旦に食べた物のせいなのか何が原因なのかは分からなかったけれど、ウイルス性の胃腸炎と思われる症状に見舞われ、元旦の深夜から三日の朝くらいまでかなり苦しんでいた。高熱、嘔吐、下痢でもう大変。今年は気合い入れて勉強しようなんて意気込んでいたけれど、やはり体は資本。健全な精神は健全な〜じゃないけれど、もうそれは基本ですね、はい。精神は肉体というハードウェアの上で動くOSです。そっちがしっかりしてないと何も出来ません。あと計画なんてものは外的要因であっさりと変更を余儀なくされるものだということも再認識。周到に用意された計画、綿密に組まれたスケジュール、あらかじめ想定されたリスクへのコンティンジェンシープラン(この用語知ってる人ってどれくらいいるのだろう…。勤め先の専門用語かも。まあ代替案ということですね)、いずれも聞こえは言いけれど、まあ予期出来るレベルの物事に備えているってだけの話であって、突然ウイルスが猛威を振るったとかそういう話の前にはなす術ないんですよね、やっぱり。
という訳で、何はなくともうがいと手洗いだけは欠かすまいと決めた2008年初頭だった。

「三日坊主でいいんだよ」と言ってみるテスト

なんかポジティブ・リストとかネガティブ・リストとかの話がこちらで出ているのを読んで連想した話があったので書いてみる。日本語とかその格言とか日本という国家に流れている空気には何かとネガティブ・リストが多いんだよなぁ、って思ったのはアメリカに行ってアメリカ人の知り合いが増えてきたとき。彼らは何かと将来の計画や今学んでいる事だとかを積極的に話してくるんだよね。「将来はカリフォルニアに移ってみせるわ」とか「いまスペイン語の勉強をしているんだよ」だとかね。日本でもそういう話は当然出る。でもね、その話が出るときの実現可能性がアメリカに比べて日本はすごく高いように思うんだよ。簡単に言うと日本人は「実現出来そうになったら人に話してみる」つまり「駄目そうな段階では人に話さない」的なムードが体勢なんですな。アメリカの人はあまり「スペイン語習っているとか言っちゃって、途中で挫折したらどうしましょう」的なムードにならないんだろうな、という感想を持った。日本だとなぜか、意味もなく結果を求められるんじゃないかと怯えてしまうんだよね。別にこんなのどっちでもいいだろうと思う様な内容かもしれないけれど、このムードの中で「何かに挑戦しようとする人」が減ってしまうというのは悲しいことではないだろうか。そう思わないだろうか?「三日坊主」という言葉も日本に存在するネガティブ・リストのひとつだなと今日思いついた。これが「三日でやめちゃうくらならやらなければ?恥ずかしいよ」的なムードを作ってしまう。結果「とりあえずやってみるか」みたいな人が減る。挑戦する人の母数が減る。イノベーションが生まれない、的な流れは絶対にこの国に存在していると思う。そんなの潰したいと思いませんか?三日坊主で終わってもいいからまずはやってみるといい。プログラムをやりたいと思ったらHello, Worldとやってみればいいし、アイススケートにチャレンジしたいと思ったらすぐにでもリンクに向かったらいいし、パリダカに出たいと思ったらまずは自分の車で地元を走る事からはじめたっていいんじゃなかろうか。情熱をまずは形に変えてみたらいい。それが思ったよりも難しかったり、つまらなかったり、かっこわるかったりして嫌になることは多いにある。そしてやめたくなったらやめればいい。次の情熱を待つしかない。でもその中から輝かしい才能も多くみつかることになる。全体としては多いにハッピーになる。成功した人間が後進の人たちに向かって「才能ない奴は止めろ」なんて言う事はあまりない。それはリップサービスも勿論あるだろうけれど、多くの人間が挑戦することによってしか、輝かしい才能が生まれないことを肌で分かっているからではないからだろうか。違うかなぁ。

梅津信幸「あなたはコンピュータを理解していますか?」

あなたはコンピュータを理解していますか? 10年後、20年後まで必ず役立つ根っこの部分がきっちりわかる! (サイエンス・アイ新書)

あなたはコンピュータを理解していますか? 10年後、20年後まで必ず役立つ根っこの部分がきっちりわかる! (サイエンス・アイ新書)

2007年最後に読んだ本。この本は対象読者層が結構限られるだろうな、というのが個人的な第一印象で「文系、または情報系以外の理系の学生、またはその出身の社会人で、突っ込んでコンピュータの事を知りたいという知的好奇心のある方」というのがその対象ではないかと思う。とはいうのもかなり平易な例を用いて説明をしているものの、その対象がエントロピーや有限オートマンオートマトンやメモリの参照の局所性など、まあ普通は一般の人に求められないような知識だからだ。このあたりの内容を既に勉強してきた人にとっては平易な説明でなくてもかまわないだろうし、平易な説明が必要な方はおそらく学ぶ必要もあまりないのではないかと推測するので、位置づけが難しい本だと思う。が、面白いです。

今年読んだ中で面白かった本10冊

定番イベントですけどやっときます。あくまで「今年読んだ本」であった「今年出版された本」ではありません。技術書は含みません。順位も付けませんのであしからず。紹介文は僕が書いたエントリからの引用です。

特捜検察の闇

特捜検察の闇 (文春文庫)

特捜検察の闇 (文春文庫)

魚住昭「官僚とメディア」 – 二十代は模索のときブログで紹介した「官僚とメディア」と同じ魚住氏による本書は、この日本で起こっている司法の腐敗を抉り出したもの。相当に読み応えがありました。

著者は本書で語っているように、以前は特捜検察のファンだったという。特捜検察という前著は特捜検察の活躍を描いたものであるようだ。しかしその著者が今度は検察、そして司法全体に蔓延る腐敗の構造に光を当てることになった。日本の司法にどんな変化があったのか、そしてこれからどう変わっていくのだろうか。そういったこと深く考えさせられる内容である。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20071116/1195167489

過剰と破壊の経済学

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

梅田本も勿論そうだけど、ソフトウェアや通信など、所謂で活躍する若き人材や、将来それらの業界を目指している学生達にはこの「池田本」も是非読んでもらいたい。なぜかというと、この池田本で今僕らが属している世界というのはどういう世界なのか、どのように成り立ったのかを総覧出来るからだ。この池田本で自分達の属している世界の構造をしっかりと把握してから、梅田本を読んで夢や将来像を作り、それを達成する為の戦略を練ってほしい。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20071216/1199056395

生物と無生物の間

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

本書は「生物とは何か」という根源的な問いに対して著者自身が答えを出そうとしたその経過を記したものである。我々は普段そのような問いかけをすることはあまりないが、「生物」と「無生物」というものを無意識のうちに判別しているし、何かをその境界に見てとっているはずである。それは一体なんなのか?それを追っていくのが本書のテーマである。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070819/1187488098

翻訳家の仕事

翻訳家の仕事 (岩波新書)

翻訳家の仕事 (岩波新書)

当然ながら文章を生業にしている方々ばかりなので、非常に読ませる内容で本書は満ちていると思うが、それよりも何よりも翻訳という仕事、もっと言えば自分が真剣に取り組んでいるある作業に対する考察が非常に興味深いものとなっている。プログラマがプログラミングという作業について真剣に考察しているようなブログエントリが非常に面白いのと同様、翻訳家が翻訳と向き合う姿を描くこの本は面白かった。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070419/1176933446

進化しすぎた脳

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

本書では脳科学者の池谷裕三氏が、それこそ「中高生にも分かるように」脳についての説明を行ってくれている。授業の内容をそのまま文章にしたこともあって非常にテンポも良く、さくさくと読み進めることが可能。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070224/1172276215

風の歌を聴け〜ダンス・ダンス・ダンス

風の歌を聴け (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

偉そうなことを言ってしまうなら、素人のくせに能書きを垂れてしまうなら、羊をめぐる冒険とダンス・ダンス・ダンスの間には奇妙な溝があるように感じたというか、連続して読んだからかもしれないけれど、昇っていたエレベータの景色が急に様変わりしたようなというか、何か異質な世界に入ったような感覚を覚えた。これは70年代的なものと80年代的なものの違いなのか(そして僕が生まれた時代と育った次代の違いでもある)、村上春樹という作家の成長もしくは変貌によるものなのか、あるいはただの僕の読んだときの体調であるとか気分であるとかそういった読者側の要因なのか、その辺は分からないのだけれど、確かに溝がそこにはあった。少なくとも僕の今回のこの読書においては。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20071028/1193531149

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

実は先日翻訳夜話2 サリンジャー戦記(文春新書)という新書を購入して読み出したのだが、どうもこの本がこの村上春樹訳のキャッチャー・イン・ザ・ライを読んでいることを前提にしている本だったので(当たり前と言えば当たり前だが)、そちらを一旦中断し、本書を読んでみた。おそらく本書は多くの人は思春期というか、少なくとも社会人になる前に読む類の本ではないかと推測したがどうなのだろうか。僕はもういい大人になってから本書と出会ったので、多少他の人と感じ方が違うかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070526/1180133736

特捜検察vs.金融権力

特捜検察vs.金融権力

特捜検察vs.金融権力

スリリング。特に第1部のスリルはかなりのものだと思う。蜜月だった時代から大蔵官僚の摘発にいたるまでの特捜部の動きの変化は非常に興味深い。僕の頭の中に漠然と染み付いている数々の思想は、こういった日本の中枢にいる人達の「成果」なのかと思うと不思議である。例えば「大蔵省とノーパンしゃぶしゃぶ」なんて言葉が世間を飛び交っていたとき、僕はほんの子供だったはずだが、しっかりと頭に刻み込まれている。佐川急便事件やリクルート事件にしても同様だ。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070510/1178748438

いかにして問題を解くか

いかにして問題をとくか

いかにして問題をとくか

本書はポリア教授により、数学の問題を解くに当たっての考え方の手順や方法を学生にどの様に教えるか、という目的で書かれたものである。が、どんな数学の問題にでも当てはめることが出来るように、その手順は十分に抽象化されている為、数学を超えて、色々な物事の問題を解決するときにも使える内容になっている。一度は目を通しておき、ポリア教授の言葉を頭に刻んでおくと有意義だと思う。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070728/1185591639

獄中記

獄中記

獄中記

本書を読んでいて一番感じたこと、それは意外かもしれないが「ユーモアの大事さ」である。「ユーモアを持ち続けることの大事さ」と言った方が良いかもしれない。前半にそういった件があった気がするが、佐藤氏はこの状況においてもユーモアを持ち続けていようと務めていたと思うし、実際にそれは成功していたと思う。弁護団への手紙からも、外務省の後輩への手紙からも、彼一流のユーモアが感じとれる。こう書くと「ではユーモアとは何なのか」という哲学的な問いへと発展しかねないが、取敢えずは「現状を楽しむ力」と定義しておきたい。アカデミー賞で何部門かを獲得したイタリア映画「Life is Beautiful」は人間にとってのユーモアの大事さを描いた作品だと僕は認識しているが、あの映画を見たときのようにユーモアを持ち続けることの大事さを痛感した一冊だった。

http://d.hatena.ne.jp/rintaromasuda/20070120/1169267742

さて、何をやめようか

以下の名エントリが2005年末だったいうのに驚いた。だってまだ凄く記憶に新しかったから。

さあ来年は何を始めようか。そう考えるのではなく「何をやめるか」を先に決めよう。それも自分にとってかなり重要な何かを「やめること」。

それが「来年の抱負」「今年の抱負」を真に意味のあるものにするための最重要ポイントだと思う。新しく始める「何か」を決めるだけでは、できない場合がほとんどだ。

「やめること」を先に考えよう – My Life Between Silicon Valley and Japan

タイトルで「さて」なんて書いたけれど、実はもう決まっている。
今年は読書をしない
と決めている。具体的に言うと、今まで娯楽の読書に使っていた時間は全て技術の勉強の為に回す。つまり技術の為の読書はする。僕の場合は技術の為の読書は娯楽にもなっているのだけど、純粋に小説とか、書店で気になった新書とか、文庫とかそういうのは読まない。読んでも月一冊程度にする。そう決めてみた。こういう何と言うか「偏り方」はある意味での成長の為には良くないとは思っているだけど、今年は何としても技術者としての飛躍の年にしたい。技術者として「技術」を飛躍させる年にしたい。その為に読書の時間を切り捨ててみよう、というのが今年の計画だ。実は年末に買って読んでない本が何冊かあったりするのだけど、それらはその「たまの月一冊」の読書に回す。もしかしたら来年読むことになるかもしれないけれど、まあそれでも問題ないだろう。
こんなこと書いていても、もう何ヶ月もしない内に「やっぱり読書をしないと人間としての深みが…」なんて不安になりだすのが僕の陥りそうなパターンだけれど、まあそれが今のうちから分かっているのであればコントロールも出来るだろう。という訳で本ブログの「読書記録」カテゴリは2008年度は激減する予定です。あまりいないかと思いますが、それをもし楽しみに読んで下さっている方がいらっしゃたら申し訳ありません。
今年も良い年にしましょう。

はてなと有料オプションとニコニコ動画とVimとチャリティー

はてなからのアクセス数のレポートがおかしいと思っていたら、有料オプションを継続するだけのポイントが残っていなかった。最近定期券がPASMOになってから、期限が切れているのに電車に乗っちゃったりってことをよくやってしまうんだけど、はてなのポイントについてもそれと同じ様なことをしてしまう。きちんとメールに目を通せばすぐ気づくんだろうけど、なかなかルーチンワーク化してる作業に思考を介入させることは難しいんだよね。
そう言えば今ネットで使用している色々なものの中で、対価として金銭を払っているのははてなとニコニコ動画くらいのものだなあ。ニコニコは実はそんなに見ていないので止めてもいいかな、とか思っているのだけど、ときおり大きな話題になる動画を見る為にまあお金を払っておくか、というような気持ちで払っている。元が取れてないと判断したらそのとき止めようかな、と。はてなについては代替の無料サービスはいくらでもあるし、はてなに1円も払わずに使える機能だけ使っていればまあそれでいいという方もたくさんいるとは思うのですが、なんとなくこの「お金を払って、サービスを得る」という行為がネット上では当たり前ではなくなってきてしまっている昨今、きちんとお金を払ってサービスを得るというのが心地よく思えたりもする訳です。あ、でも値上げとかされたら辛いなあ。
僕はVimというテキストエディタが大好きなんだけれど、Vimはちょっと変わっていて「チャリティーウェア」という名目で無償配布している。何がチャリティーかってえと、作者のBram Moolenaar は随分とボランティア活動に熱心な方で(Vimを作り、Googleに入る程のエンジニアであり、熱心なボランティア活動の推進者なんて尊敬しちゃいますね)、「もしVimを気に入ってくれたら、Vimのスポンサーという形で寄付をしてくれ」というスタンスをとっているんですね。Vimのユーザが世界にどれだけいるのかも知らないし、どれくらいの人がスポンサーとなっているのかは分かりませんが、彼がボランティアをしている地域の為の貴重な収入源となるでしょう。改めてソフトウェアの、そしてプログラマの可能性を感じさせる活動です。こんな形の社会貢献が出来れば、と思わず考えてしまいます。最低限度額なのが申し訳ありませんが、僕も気持ちを送らせて頂いています。
ああ、なんか主題のないエントリになったな。

クレイトン・クリステンセン「イノベーションのジレンマ」

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

読む前に予想していたのは「本書を読みながら目の覚める様な知的興奮を覚えるだろう」という事だったのだが、正直に言うとそういった現象は起きなかった。おそらく本書に関する膨大な情報が既に至る所に(特にネット上に)存在するので、僕の頭の中に本書のベースとなる基本的なアイデアがあらかじめ組み込まれていたせいだろう。逆に言うとそれだけ情報が溢れてしまうような名著なのである。この先何度となくページを捲る事になりそうな予感を感じたのは、やはり著者であるクリステンセン教授が示唆する通り「歴史は繰り返す」からだろう。細かい数字などを飛ばして読んでも本書の核となるアイデアは掴めるはずなので、まだ読んでいない方で、世の中に反乱している本書関連の情報をまだ吸収していないと思われる方は一読をお勧めしたい。
さて技術者*1の視点で本書を読んだとすると、強く思うことは一つ。それは「如何にして破壊的技術を生み出すか」ということ。著者の言う通り、この「破壊的イノベーション」というのは通常新しい技術ではない。新しくないというのはつまり「基礎研究から飛び出してきたばかりの技術ではない」という意味であって、顧客や市場にとっては新しい技術であろう。つまるところ「既に存在する技術をどのようにマーケットに適合するように利用出来るか」が肝である。当然そこには新たな技術的挑戦があることも忘れてはならない。「自動車を電気で走らせる」ということと「一般家庭で使ってもらえるくらいの自動車を電気で走らせる」ということの間には通常大きな違いがある。その間ではまた新たな研究が必要だし、新たな開発が必要である。そしてそういった現場に関わることはエキサイティングであろうと思う*2。そこで活躍するような技術者になる為にはどうすればいいのか。本書にはそのようなテーマはなかったけれど、読んだ結果としてそう考えさせられる。そういう本である。

*1:本書ではビジネスに関わる全ての活動を「技術」として捉えていたが、ここでいう技術は普通のTechnologyのことです。

*2:勿論基礎研究こそがエキサイティングだという研究者の方も多くいらっしゃると思います。